誰もが未熟な時期を通って一人前になる
最近SNSのフォロワーさんに「フリーランス」や「書くお仕事」関係の人が増えた。そのせいだろうか。経験値が上の人が経験値が浅い人をあからさまに批判したり揶揄したりする発言をするシーンを時々目にするようになった。
特に、クラウドソーシング出身者に対する批判には目を覆いたくなるような罵詈雑言が並んでいるのが非常に気になる。
といっても、年齢的にもベテランの域に入っているアラフィフ以上の人にそのようなひどい発言はあまり見受けられず、どちらかと言えば若くして一定の成果を収めた人ほど尖った発言が多い印象だ。若さゆえにそのような考えになるのかもしれないが、こちらは年配者だけに、そう言われればやはり面白くはなく、つい「若造が何を言うか」といった老害的な発想が浮かんでしまう。
私自身も今の仕事に関してはまだ3年弱の経験しかない。だから、百戦錬磨の経験を積み重ねて高いスキルを持つ人から見れば、クラウドソーシングからこの仕事を始め、これといった教育を受けていない私のような人間が許せないのも理解できる。そのような「素人」がプロの書き手を名乗るのに違和感を覚える人がいても当然だろうとも思う。
しかし一方で思うのは、そのようなハイスキル・ハイキャリアの人にも経験不足やスキル不足の「素人」だった時期があるということだ。つまり、今のその人があるのは、その世界に飛び込んだ時周囲にいた諸先輩方が、未熟な後輩であるその人に苛立ちつつも、根気よく見守ってくれたおかげではないかと思うのだ。
もし未熟なことを理由に「おまえこの仕事やめろ」と解雇や契約終了に追い込まれていたらおそらく今のその人はない。そう考えると、経験が豊富な者が経験が浅い者を叩くのはただの幼稚ないじめ。自分が上の立場になれたのはその上の立場の人が忍耐強く自分を育ててくれたおかげだということを忘れ、自分だけの力で今の地位を確立したというおごり以外の何物でもないと思う。
この世界では新人の分際で、ずいぶん言いたい放題なのは承知の上だが、人生においてはベテランの域に入っているからこそあえて言わせてもらう。未熟で至らない後輩を温かく見守ることができない人の批判的な書き込みは、その人自身の度量のなさが露呈していてみっともないと。
50年以上生きた人生のベテラン、そして子育てという究極の人材育成を終えた私から見れば、若い人がしたり顔で書き込む青臭い文言には正直ひどく違和感を覚えるものもある。
しかし、それは私自身もまた通ってきた道である。また、私が発した青臭く生意気な言葉や未熟ゆえの暴走を、鷹揚に受け止める人生の諸先輩方の優しさに支えられたからこそ、今の私があることも重々承知している。
そう考えると、かつて私が人生の諸先輩方に迷惑をかけた分、自分も人生の後輩から迷惑なことをされてもある程度は許容する心の広さが必要だと痛感せざるを得ない。
そんな私から見れば、どんなにキャリアが立派でも、どんなに仕事ができても、後進のものを育てる気がなくただその未熟さを叩くだけの人を尊敬などできない。
また、それなりに人生の修羅場を潜り抜けた先輩としての目線、あるいは我が子を見つめる親目線で見れば、若くしてキャリアを積んだ人が未熟な同業者を批判するのを見るにつれ、「ああ、この人、人間とのしての幅が狭いな」としか思えない。
せっかく仕事ができるのだから、もっと心の許容量が増えればひとかどの人物にもなれるだろうにと思うと、なんだかとても残念な気持ちにもなるのだ。
人はだれもが、未熟な時期を通って一人前になる。その背景には未熟さを受け止めてくれた先輩方の多大な尽力がある。私たちは一人前になってもそのことを忘れてはいけない。後輩の未熟さを鷹揚に受け止め、彼らが許容できる形でアドバイスができる程度の度量を持ちたいものだ。そうすることで、私たち自身もさらに自らの人間性を磨くことができるに違いない。