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言葉は便利だが単なる「ツール」にすぎない
書く仕事をしていると、言葉とは単なる「ツール」にすぎないと痛感する。
自分が伝えたいことをより的確に相手に伝えるには、実に便利なツールだ。しかし、当然ながらその「伝えたいこと」が書き手の中で明確になっていなければ、どんなによい言葉を並べても全く意味をなさない。
しかし、書き手や話し手が「伝えたいこと」を明確化するには、その人自身がその伝えるべきことに対する自分なりの「考え」をしっかりと持っていなければならない。
さらに、その「考え」の土台として「知識」やその人なりの「アイデンティティ」があり、これまでに人生においてその知識やアイデンティティをどのような形で生かしてきたかも問われる。
つまり、人にものを伝えるということは、単に言葉を並べればいいわけではなく、その人なりの思想やあらゆる物事に対する考え方という「芯」の部分まで、伝えたい相手にちゃんと伝わる形にしなければならないのだ。
その「芯」の部分をよりしっかりとしたものにするために必要なのが、知識を増やすための「学び」であり、各人のアイデンティティをより明確にする「経験」なのではないだろうか。
そのことを痛感したのは、2年間海外に住み、日本人とは違う国籍の不特定多数の人と接した時だった。
その2年間の多国籍な交友関係では、こちらが答えにくい質問でも、自分自身の考えを求められる。
例えば、当時晩御飯のやりとりをする程度に仲がよかった近所の韓国人女性に「閣僚の靖国参拝についてあなたはどう思うか?」という、大変答えにくい質問をされたことがある。
そこで「日本人の中でも意見が分かれている」と言葉を濁したら、彼女は「違う! 『あなた』はどう思っているの?」と詰問されてしまった。
ずいぶん嫌なことを聞くものだと思いつつ、しょうがないのでその時思っていたことを正直に話した。
その答えには賛同できない部分があったようだが、それでも彼女は私が正直な考えを話したことを評価してくれ、以後はより親しく話をするようになった。
また、国籍が違う友人たちと顔を合わせるたびにその手の質問があり、答えに窮して言葉に詰まっていると「あなたには自分の考えがないの?」と容赦なくつっこまれたものだ。
しかし、それ以来、「自分は何者なのか」ことを考えるようになった。そして、これまで生きてきた人生で培ってきた自分なりの思想や考え方を頭の中で整理し、言葉にする習慣がついた。
また、「自分は目の前にあるテーマに対してどのような考えを持っているのか」ということを常に意識し、それを誤解を招くことなく人に伝えるためにはどのような言葉や表現を選ぶとよいか? ということについてもよく考えるようになった。
その時、初めて言葉が持つ便利な「ツール」としての役割が本当の意味でわかったような気がする。
しかし一方で、自分の中で芯となる考え方がしっかりしていれば、つたない言葉でも相手に必要なことが伝わるということも知った。
これは実際に経験してわかったことだが、極端な話ろくにしゃべれない言語であっても、自分の「芯」となる考え方がしっかりしていれば、つたない言葉と身振りなどでこちらの意思は十分伝わるのだ。
私は英語も中国語もお粗末なレベルだが、それでも自分の言いたいことはしっかり明確化し、自分の知っている中でもっとも自分の考えに近い言葉を選んで話をした。
すると不思議なことに、向こうは私が言葉で伝えきれなかったこちらの真意を行間から察してくれ、意外とスムーズに意思疎通ができるのだ。
つまり、自分が伝えたいことや考えを自分のなかではっきりとイメージ化できているなら、言葉というツールが足りなくてもちゃんとこちらの意思がつたわるということだ。
そう考えると、言葉は大変便利なツールであり、それを上手に使いこなせれば人の心にまっすぐ届く文章を紡ぐことができるが、その前提には必ず芯や土台となる自分なりの思想や見解などが必要不可欠なのだ。
そして、より大事なのが後者。芯や土台がしっかりしていなければどんなにきれいに言葉で装飾しても、その言葉は人の心に届かないのだと今はわかる。
土台となる「考え方」と、それを過不足なく表現できる「ツール」としての言葉。その両方が揃ってこそ、本当の意味で文章や話し言葉に説得力が生まれ、多くの人の心に届くのではないのだろうか。
この仕事を始めてからも、常にそのことを意識して文章を書いている。よくわからないが、レッドオーシャンなWebライター業界で細々とでもこの仕事を2年続けてこられたのだから、多少はその心がけが実を結んでいるのだろう。
しかし、自分の文章を読み返してだめだと思う時もしばしばある。そんな時はたいていその記事のベースとなる知識の不足があり、そのテーマに対する自分の見解が固まっていない。
そう考えると自分はプロの書き手としてまだまだだと思う。日々精進、精進。