放蕩児

   放蕩児(2008年3月)

 放蕩児に就いて漱石がおもしろい事を書いている。いま手元に無いので後に引用する事とするが、このような事だった。放蕩するものとは、放蕩するごとく追い詰められて放蕩しているのであって、放蕩しようとおもって放蕩する者は本物の放蕩者ではない。これは放蕩に限らずあらゆることをも説明しうる言葉である。たとえば小説家においても同じで、小説家になるように追い詰められてなる、という事と同じようなものだ。
 私は一時期、モテる男について考えていた時期があり、それを話題の一部にしたら、客は食らいついてくる。そりゃそうだ。誰だってモテたいに決まって居る。客は真剣な眼差しを持って私に問いかける。「どうすればモテるようになるんだ?」そして教えてくれと懇願する。まず真剣に懇願する点から見ても彼は女にモテない事が察せられる。しかし、モテる事が人生や人間性の優劣をつけるわけでは勿論無く、ただ人間性のひとつの要素にしか過ぎない。私はその一部を調べただけなのだ。
「んー、あれは才能ですねぇ」
 もうこれは究極の結論である。才能というか、これは感覚的な要素が強い。いくら手法を学んだところで、それは理性によって作り上げられた技巧でしか無いのである。私としてはそれ以上の結論は無く、そもそも未だ研究中なのでそれ以上は答えられなかった。そうしたら女性が口を出してきた。
「あらぁ、○○さん素敵だからそのままでも充分モテるわよ」
 私が客を褒めず、才能という言葉を使ったので彼女は私にこれ以上話をさせたく無いようであった。彼女は過剰すぎるほど客を褒める。そんな技巧と媚は面倒くさくてやってられない。本音を云って壊れるくらいの関係なら私は要らないのである。第一、褒められてうれしいものだが、褒め合うだけの会話はちっとも面白くない。客はその女性の話は耳に届かぬようで、そっちのけで私からその秘訣を知りたがっているようであった。


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