「ただいまカービィ」という言葉の、愛おしさについて語らせてほしい
カービィディスカバリーをクリアした。
仕事のストレスから目を背けるように没頭して、気が付いたらワドちゃんは全回収していたし、ガチャルポンはコンプリートしていた。そこまでするつもりはなかったんだが、気が付いたらコンプリートしていた。
あのゲーム本当によくできていて、カービィお前はどうして何をしてもかわいいんだというかステージクリアで踊っててもかわいいし何をほおばっていてもかわいいし、何なんだ君は自販機ほおばっても缶を射出しないと飲めないだなんてかわいそうでかわいくないか、ほおばっているときの><の顔が最高にかわいいんだ頑張れカービィ負けるなカービィ俺たちのピンクのあくま!うぁあ好きという気持ちになるし、「わーい!」って全力で喜んでいるカービィ良くないか、ディープスリープの眠そうな顔も芸が細かく尊いし、寝相3パターンの内こてっとベッドから落ちるのわかりみかわいいだし、
というかワドルディお前もかわいいぞワドルディの町でコピー能力でやっつけるときゅうって倒れた後ちゃんとカービィさんにわにゃわにゃ文句言うのかわいいぞ、というかお前らだよドルディーズ※なんなんだ尊すぎかメジャーデビューした後もギターケース置いといてくれよ無限にお金投げたいんだが、そう全回収すると見られなくなるけど檻に入れられてるワドちゃんカービィが近づくと「わにゃわにゃ!」ってめっちゃ手を振ってくるのに離れる(ワドちゃんの視界から外れればいいから後ろに回ってもいい)と目に見えてしょんぼりするのすんごくかわいい確信犯で何回も離れてごめん、
※サムネイルの画像はドルディーズの皆様である。ディスカバリーのプレイ画面をスクショした。
本題行きましょうか。
カービィシリーズの中でもやっぱり「グリーングリーンズ」が好きな自分としては、カービィハウスで流れる今作唯一(たぶん)のグリーングリーンズのアレンジである、「ただいまカービィ」という曲がとても好きなのだ。タイトルはドルディーズへのリクエストで知った。というかサウンド聞き返せる機能はよくあることだが、ドルディーズというワドルディのバンド形式にするのずるくないか?ちゃんとカービィさんやギャラリーのワドちゃんたち曲のテンポに合わせてぽよぽよしているという芸の細かさ(ついでに言うと一部ギター不使用の楽曲ではきちんとギター担当のワドルディは演奏をしていない。ここまでくると芸細すぎて怖いレベル)である。最高か?
……話が逸れないと気が済まないのかと言われそうではあるが、この、「ただいまカービィ」という曲は、ワドルディの町にある、「カービィハウス」で流れる曲である。前述の私の煩悩の中にもあるが、カービィがベッドでぐっすり眠るのもここである。1/3の確率でベッドから落ちる。実に幸せそうな寝顔である。カービィシリーズをプレイしていれば一度は聞いたことがある、「グリーングリーンズ」のアレンジで、なんとも穏やかに心地よい曲なのである。
この、「ただいま」が、なんとも妙に心に沁みたもので、つらつらとこの文章を書いている。いやまあほら、ディスカバリーが名作とか言うまでもないし、というか俺たちのHAL研の作るゲームが良ゲーじゃないわけがないだろうと思うわけである。HAL研はマジでこう、強いというか信頼できる。BUMPや米津を信頼できるオタクと思えるのと同じくらいに信頼している、と言えばなんとなく想像してもらえるのではないかと思うが。
さて、この「ただいま」がこうも心に沁みたのはどうしてだろう。「ただいまカービィ」というのは、英語版タイトルだと、"Welcome Back, Kirby"というタイトルなのである。直訳するなら、「おかえりなさい、カービィ」になるのだ。日本語と英語でずれがある。
まあ単純に考えてしまえば、英語的な価値観に立ってみると、私たち≠カービィなので、ただいまの訳であるI'm homeは違和感がある、という話なんだろうが。カービィがお家に帰るのを歓迎している私たち、という構図から、Welcome back, Kirbyというタイトルを付けたのであろう。
つまり、「ただいまカービィ」というタイトルには、「『ただいま!』とお家に帰ってきたカービィを、お帰りと優しく見守る私たち」がこの短い表現に詰まっているのである。
この、主語の「ずらし」のような現象は、子供のいる女性が、自分からすれば夫である人物を「お父さん」と呼ぶようなものに近いのだと思う。自分からすれば夫でも、子供からすれば父親なので、お父さん、と呼ぶのだ。似たような「ずらし」は自分にとって母に当たる人でもおばあちゃんと読んでいたり、あるいは、小さい子に向けて、「ボク、お母さんは?」と聞くのにも通ずるだろう。主語を「ずらす」のは、子供への優しまなざしゆえだ。子供の一人称、子供の視点に揃えることで、寄り添いたいという姿勢の表れのようにも思える。主語を厳密にする習慣のない日本語だからこそ、こうして主語をずらせるのだろう。
「ただいまカービィ」に戻っていえば、動作主はカービィだが、そのカービィの一人称に寄り添うかのようなこの表現はそれだけで、カービィへの優しいまなざしが含まれているのである。なんとも奥行きのある表現ではないか、と思うのだ。
おかえりなさい、という言葉も、私は結構好きだ。
考えてみれば、不思議な言葉だと思う。
だって、先生が生徒に「もうお帰り」と言うと、これは、追い出す表現になる。学校は生徒にとって帰るべき場所ではないからだ。
ところが翻って、その生徒が家に帰ったとき、家族が玄関で「おかえりなさい」と言うと、途端に、暖かく迎え入れる表現になる。その生徒にとって、家は帰るべき場所なのだ。
つまり、おかえりなさい、という言葉は、「ここはあなたが帰ってくる場所ですよ」という承認なのである。なんとも奥ゆかしく、優しい言葉ではないだろうか。
そして、ここにも、主語の「ずらし」が見える。帰ってくるという動作主である「あなた」に主語、視点をそろえることで、寄り添いたいという気持ちの表れなのだとも考えられないだろうか。
また、同時に、結界の概念も思い出す。
悪しきモノは、家主の承認を得ないと入ってこられない。だから、応えてはならない、という説話、民話は多くあるが、これも、悪しきモノにとって、ここは、「帰るべき場所ではない」のだ。だからうっかり迎え入れてはならない……。
あるいは、気遣いの話をしてもいい。主語を曖昧にすると、私とあなたの境界線は揺らいでいく。それは、相手の意図を汲むという意味で言えば気遣いとも言えるだろう。一方で、自他の境界線が曖昧であることは、ある種のコミュニケーションエラーにもなりうる。言わないでもわかるだろう/言ってくれなきゃわからない、の論争は尽きることがない。
だいぶ話がとっちらかって、結局何が言いたいのかわからなくなってきたので、この辺で終わることにする。
結論としてディスカバリーは名作だし、俺たちのカービィはとてもかわいい。間違いない。
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