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日本人関係性萌えなオタク多いんじゃないか仮説

こんばんは。千歳ゆうりです。

日本辺境論」(面白かったです)とかも読みつつ、最近考えていることとして、日本人は関係性萌えが多いのではないか?その理由として、日本語と関係性萌えの親和性の高さがあるのではないか?というのがあります。
うっかり(うっかり?)FF16の沼に落ちてしまい、サブクエ全部やっちゃったので始めからやり直すにあたって、英語版でプレイすることにしました。ほとんど全部の会話でポーズして辞書を引いている自分の英語力の無さにしょんぼりしつつ、辞書引いて古詩表現とか書いてあると「うぁあ俺の推し育ちが良い……!」とうれしくなりつつ、余談多くてすみません、一人称や二人称から関係性がちらりと覗く、そこに自分はすごい滾っていたのだな、と気づきました。
「日本辺境論」曰く、日本語の一人称や二人称がここまで多様なのは、相手との関係性を細やかに調節したいから、だそうです。「お前」と呼ぶか「あなた」と呼ぶかで関係性は大きく違う。ちなみに私の推しはわりと、ならず者相手でも「あなた達」と呼ぶので「そ、育ちが良い~!」って嬉しくなっています(隙あらば推し語り)が、
日本語で「兄さん」って呼んでいた弟、英語版では兄を名前で呼んでいて、そっか名前か……!と発見がありました。いや、なんだろう、普段「兄さん」って呼んでいるのに、感情が爆発して名前呼びが入るとアッ……パタリ……って死んじゃう……オタクなので……みたいな萌え、英語版だとどうなるんだろう、という気持ちがあります。
感情が爆発して、というか、普段は兄弟の、家族としての絆を尊んで「兄さん」と呼んでいるであろう弟が、一人の人間として、一人の人間である兄に言いたいことがあるんだ、という衝動のような激情が、二人称が「兄さん」から「名前」に変わることで一瞬で分かってしまうわけですよ……待って無理好き尊いしんどい……推し語りごめんなさい……。

普段「私」って言っていた人が「俺」ってこぼす、その瞬間に萌えのきらめきがあるじゃないか!と思っているのですが、この萌えのきらめきはより詳細に言えば、一人称が「俺」か「私」かで、話者が思う話者と相手の関係性がわかるからなんですよ!そんな言語他にないでしょ!?
日本辺境論曰く、日本人は相手との関係性を何よりも重んじる、敬語だってその文化だ、とありましたが、関係性の微細な変化を細やかに汲み取れてしまう言語があるからこそ、関係性の微細な変化に今私たちは無限に萌えを感じられるわけだと思うんですよ。錬金術か?

ここまでつらつらと、日本人関係性萌えオタク多いでしょ仮説の理由のうちの1つ、日本語がそもそも相手との関係性をすごく丁寧に描写できる言語だから、というのを言ってきました。実はもう一つ、結構ネガティブだけど関係性萌えオタクが多いのはこういうのもあるんだろうな、という理由があります。

最近、家族間の関係性の希薄さ、を個人的によく感じます。それは、夫の愚痴を言っている妻のアカウントがバズっていることを挙げてもいいし、アニメとかで親子間のディスコミュニケーションが散見されることを挙げてもいい(水星の魔女とか?)のですが。あるいは、日本は海外と比べて、延命治療がよく施される傾向にある、ということも家族間の関係性の希薄さの帰結だと思います。いざというときに延命治療をすべきか、という大事なことさえコミュニケーションできていない。まだ何の恩も返せていないのに死なれたら困る、だからとりあえず延命を望む、のだとすれば、そこに透けて見えるのは家族間のディスコミュニケーションです。

家族間のディスコミュニケーションがある種共感されうる対象としてエンタメに描写されている事実があります。……あるいは、私はNHKの5分番組、ナンブンノイチが好きなのですが、その番組曰く毒親率は1/4だそうですたっか!!!という話を出しても良いですね。クレヨンしんちゃん等はいまだに根強い人気を持っているとはいえ、今の日本には家族の話を熱く語られても少し冷めてしまうような風潮がある気がしています。
(一応言っておくと、これに関しては日本という国が他と比べてそうか、と言われると少し微妙です。「『宿命』を生きる若者たち: 格差と幸福をつなぐもの」(すごくお勧めの本です)を読んでいただければなんとなく想像がつく通り、昔に比べて今の方が家族間の関係性が希薄になっている傾向はあるだろうと思っています。そしてそれは日本に限らない世界的な傾向であろうとも。)

……何が言いたいか?要は、「家族という関係性」さえ出しておけば万人が万人皆共感してくれる、とは限らないからこそ、日本の創作物の関係性は豊かに多様になっていったのではないか、という仮説が立てられる、ということです。
家族同士に限らない、なんだったら人同士にすらこだわらない、関係性、恋人とか親友とか簡単に名前のつけられない激重感情の乗った関係性が大大大大大好きな拗らせオタクたちが生み出したどうしようもない小説も無限に読み漁るのが私は好きです。その背景に家族間のディスコミュニケーションがあったとしても、逆に、だからこそ、家族間の絆が唯一至高のものではない、という視点を持っている良さもあると思うのです。単にクラスメイトかもしれない、教え子と師匠の関係性かもしれない、淡い憧れのままバームクーヘンを食べるような関係性かもしれません。その全てが、どれも素晴らしいものとして優劣なく受け入れられる、そんな土壌があるのだとすれば、私はそれは、幸福なことだと思います。

ちなみに私は関係性萌えなオタクですが、とくに人と異類が心を通わせる話が大好物です。(全人類ドラッグオンドラグーンをやってくれ……人間とドラゴンの純愛ものとしてここまでうつくしいものもあまりないんだ……)
これについては先進国のくせに一神教に染まっていないなんかふわふわふわふわしたアニミズム的宗教観をゆるく保持しているから(八百万に神が宿っていると無意識レベルで思えるのはすごく変な民族だと思います)、みたいな話もできそうなんですが、さすがに話がとっ散らかるのでこの辺で。

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