ゲーム「ウマ娘」とフォーカシング
「ウマ娘 プリティーダービー」。現在ちまたで流行しているゲームです。
実際の競馬の歴史に登場した名馬たちを、美少女キャラにしたものです。
頭に耳、そしてしっぽが生えています。
ゲームをする人は、トレーナーとなり、ひとり(一匹)ウマ娘を選び、日本トレーニングセンター学園(トレセン学園)という専門の学校で育成し、トゥインクル・シリーズと呼ばれる、いろいろなレースに出場させ、共に成長していくこととなります。
私は、2021年2月の、このゲームの頒布開始からほどなく、このゲームをはじめました。
もうハマりまくりましたね。
空いている時間があると、ひとりのウマ娘を育て上げるまで止まらない。
私は普段からゲームをしていた人間ではないので、そんなに育成の仕方が上手な方とは思いません。ネットをみると、あっという間にすごいスペックを持ったウマ娘育てあげ、SSランク以上の評価を獲得できる人もたくさんいます。
それぞれのウマ娘には、モデルとなった実在の競走馬の生育歴や性格、得意とする走り方や距離、レース戦績、引退後の生活などを参考にキャラクター設定がされており、個性的な容姿・衣装(勝負服)とともに、明確な性格が与えられています。それぞれのエンディング・ストーリーも用意されています。
どのような家庭環境で育ち、どのウマ娘と仲良しで、どのウマ娘とライバルか、趣味や特技は何かとか、ともかく設定が細かいです。
そこで、これは心理カウンセラーである私にとって、格好の題材と考え、「ウマ娘の精神分析」という本を書こうと思ったのですが、著作権の問題で、出版社とゲーム会社との交渉が妥結せず、私はやむなく同人誌として刊行しました。
この同人誌は、「メロンブックス」という、同人誌通信販売サイトでも購入できます。
【2022年12月新作+過去作まとめ買い】ケー・エフ・シー「【小説】ウマ娘の精神分析(」セット(ケー・エフ・シー)の通販・購入はメロンブックス | 作品詳細 (melonbooks.co.jp)
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さて、この、ゲーム「ウマ娘」に登場する、各ウマ娘のシナリオの中に、いくつも、何ともフォーカシング的なエピソードがあるのです。
今回は、その中から、トウカイテイオーとミホノブルボンのケースを紹介しましょう:
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トウカイテイオーは、シンボリルドルフという、無敗のまま7冠馬となった、歴史的名馬を父としています。
ゲームの中では、シンボリルドルフは、トウカイテイオーが子供の頃から憧れていた先輩、生徒会長という設定です。
トウカイテイオーの勝負服には肩章があり、青と白が基調。
「無敵のテイオー様だぞ。みんなボクをほめてほめて!」
という調子で、自分の才能への自信を天真爛漫かつ奔放にまき散らします。
実際に入学後の模擬レースで無敗、圧倒的実力を早くも開花させていますが、少年のような純粋さを持っていますので、嫌味とは感じさせず、敵を作ることがありません。
身のこなしも実にしなやか。ダンスも歌も得意としていて、ステージでも物怖じしません。
しかしルドルフ会長はそういうテイオーのこれからを心配していました。
並走や模擬レースでテイオーを打ち負かしてしまいますが、それでもテイオーが、「会長はやはり凄い」としか言わないことに違和感を覚えていました。
会長は、このままではテイオーの可能性を伸ばせないと感じていたのです。
テイオーの方も、ルドルフに負けた時に、「胸の内側にイガイガする感じ」を感じますが、自分でも説明できません。
人は、自分の気持ちに十分に気づけない時、言葉にならない、説明がつかない身体のモヤモヤとして体験します。
これをフォーカシングでは、「フェルトセンス」と呼ぶわけですね。
そこで会長は、自分のレースを再び観客席からテイオーに見せるのですが、テイオーはやっと気づきます。
自分の中に、会長への憧れだけではなく、会長と実際にレース場で勝負して、会長すら超えた存在となり、会長にほめて欲しいのだということに。
やっと自分の中にある、会長への「闘争心」を認めるわけですね。
テイオーは会長に「センセンフコク」します。
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次に、ミホノブルボンのケースを見てみましょう。
ミホノブルボンの話し方は、まるでコンピューターのセンサーで自分の身体を測定して、指示を与えるような、非常にデジタルで平坦で機械じみた、すべて数値化されたものです。
「エラー発生」
「『もう少し』とは、数値化するとどれだけの距離ですか」
「脈拍の数値、20%上昇。しかし10分後には正常な数値に復帰するものと予測」
・・・そんなコンピューター用語満載です。
「感情」に関わるような、アナログ的な言葉の意味を理解できず、
「解析不能」
「データベースにはありません」
というような調子。
ただ、クラシック3冠をめざしたくなった時の自分の「意志」を、「憧れ」にあたるものであるとは認識していました。これが彼女の唯一の感情体験でした。
「父と二人きりでトレーニングに明け暮れていたので、両親から、入学したら、『社会性の向上』をするようにオーダーされています。『友人との交流』を作りなさいと」
ところが他のウマ娘に「なんとなく」声をかけられたりすると、
「その意味は何ですか。理解不能」
「『世間話』とはどういうことなのでしょうか? 意味のないことをすることに意味があるのですね」
「エモーショナル(情緒的)な『扇動』メソッドは私の中にはありません」
それでも、例えばゲームとかで興奮させられるような刺激を受けたり、トレーナーとの会話で、通常なら感情が揺らされるようなことを体験すると、「胸の奥をくすぐられるような、表情筋が緩む感覚を確認」などと、「身体の感じ」の次元での変化については非常に敏感に察知し、的確に言語化できます。
一見感情のない、サイボーグのようなミホノブルボンの言動に、私は非常に繊細なものを感じました。「ああ、この子、大丈夫だな。実はすでに十分なデリカシーがある」と。
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「失感情症(アレキシサイミア)」と呼ばれる人たちがいます。
正確に、勤勉に仕事をこなせるのですが、過剰な労働から生じる自分のストレスを察知できず、それが身体の症状になるまで気づきません。
「精神科」ではなくて「心療内科」で扱うのですが、自分の情動や感情というものを察知し、感情を込めて表現する力に乏しいのです。
実は、更に、こうした人は「失体感症」であることも多いのです。
人間は、はっきりとした感情の動きに気づかなくて、そして、頭が痛いとか、肩がこるとか、はっきりした、強い身体症状の苦痛に悩まされなくても、実は、身体の内側の、言葉にならない、曖昧で漠然とした、弱い、「身体の感じ」を感じながら生きています。
それは自分を包む環境や、人との関わりの中で絶えず変化していて、実はその「感じ」そのものを無意識のうちに「測定」しながら行動をコントロールしています。それは一定の「質感」「感触」「トーン」を持っているものだということに、直接注意を向ければ気づきます。
ある意味で人間は、こうした身体の感じからの無意識の膨大なアナログな情報にうずもれながら刻々とデータ処理して生活しているわけで、必ずしも「頭で」考えて「判断」して生きているわけではないのですね。「言葉」での「思考」なんていうものは非常に上っ面での心の動きに過ぎません。
このことに、まるで気づけないのが「失体感症」の人たちです。
ストレスが、はっきりとした身体の痛みや、うつ病になってしまうまで行ってしまって、仕事や日常生活に支障出て、はじめて病院にあらわれます。
ところが身体の検査では「異常なし」と出ることも多いのです。そうなったところで心療内科に回され、こころの治療薬を処方されたり、心理カウンセリングを受けることを勧められたりすることになります。
しかし、最初は、「感情」の次元でのことを、感情を乗せて表現しながら全然語ってくれず、「事実」だけしか話しませんから、そういう人に慣れていないカウンセラーは結構苦労します。
ところが、ミホノブルボンの場合に戻れば、実は身体の「感じ」の変化へのセンサーは、最初から驚くほどに発達しています。ですから、無理をし過ぎて倒れる前に、行動の制御はできてしまいます。
そういう言葉にならない身体の感じから生じる、頭では理解できない身体に生じる高ぶりや流れのようなものに、ミホノブルボンは感情としての「名前をみつける」ことに慣れていないだけです。
つまり、ミホノブルボンは「失体感症」では全然なかった。
それに「名前をみつける」ことができるようになることには、多くの場合、人との親密な交流の中でなじんでいくものです。
「そうか、これが『くやしさ』というもの『だった』のね」というような調子で。
ミホノブルボンは、トレーナーやライバルのライスシャワーとの交流の中で、自分の身体の中に生じてくる、「わけのわからない」ものに、自分で『名前をみつけて』行ける力を持っていました。
ミホノブルボンのストーリーは、この、彼女が自分の中に動き出した感情に、彼女にとっては新鮮な「名前」を「発見」していくプロセスに立ち会うことが、感動といっていいところがあります。
繰り返しますが、彼女は、物語が始まった時点から、非常に「繊細な」女の子だったんですよ。それを「身体測定」し、デジタルな、数値の変化でしか表現できなかっただけです。
不思議なことに、彼女は、最初から、トレーナーのことを気遣って、自分からいろいろなことをしてあげることができる女性でした。その背景には、そうしたデリカシーがすでに「あった」からだと思います。
親自身は、すごく暖かい人ということもあったからでしょう。
ミホノブルボンは、何ともピュアーな女の子なんですよ。
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