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フォーカシングを、日常の中で、ひとりで行うことの意義
フォーカシングを、リスナーがいる場でする方が、より成果が上がるとジェンドリンは「フォーカシング」で書いているわけだが、私はこれに疑問を持っている。
確かにリスナーがいる方が、フォーカシング・セッションは「よく回る」。
しかし、私はそれを「回りすぎ」のことが少なくないのではないかと。
ひとつには、リスナーを喜ばせたり、リスナーに気に入られようとする側面を皆無にできないのではないかということ。
もうひとつは、フェルトセンスは、単にフォーカサーの「精神内界」的プロセスではない。
フォーカシングを行う「場のフェルトセンス」であらざるを得ない。
それは「日常」という「場のフェルトセンス」とは異なる。
だから、フォーカシングのための特別な「場」から日常に帰ると、そこには「ギャップ」があるわけで、特別な場での体験が虚妄のように感じられる可能性がある。
私はそれを「セッションの『反動』」と呼ぶ。
その結果その人は再び特別な「場」でのセッション体験を求める。
こうして、いつまでたっても日常の中での一人フォーカシングができない。
もちろん、「安全な場」での、リスナーつきのフォーカシング・セッション体験で得られた気づきを、宝物のように大事にして、「反芻」して味わうということの意義は否定しない。
日常にもどったら、とてもひとりで安心してフォーカシングできない状況(例えば子育てや親の介護に忙殺)の人もあろう。
それでも、日常の場の中での、ひとりでのフォーカシングの方が、ワークショップの「場の空気」で「汚れて」おらず、純粋で奥が深く、日常の現実の自分の在り方を実際に変えていくから、できれば、そこまで身につけて欲しい、と思っていることは確かである。