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私のボランティアは己をしっかり生きさせた次の行動で「暇がある」からすることじゃなくて「暇を作って」すること
「おまえコレせーへんの?」
テレビで流れた月々一定の金額を寄付するCMを指す夫。
「せへんな」
「ウチの会社のヤツ毎月3000円してるとかゆぅとんで」
「毎月3000円寄付するより、老人ホームにボランティア行って毎月盆踊りしたいねん私は」
「お前こんなんやりそうやのになァ…不思議やわ~よっぽど金のほうが助かると思うわ」
「正直寄付なら金しか助かるモンないわ輸送コストもかからんし。やけどココに寄付した私の金の使途を私が確認できることはないやんか。どう運用されてどのくらいの金額が実際に誰をどう助けたかが私には見えん。同じ3000円なら私が3000円稼ぐ時間を労力として寄付する。1時間踊って一緒に楽しむスキルを三箇所に寄付する。それが私の3000円の使い方」
失業して生活が苦しいと嘆く知人がいて、3000円の金の余裕があるなら私は3000円分の食べ物を買って渡す。
その知人が「パチンコで増やそう」と考えたら実行できるのが現金だから食べ物を渡すほうが確実に食えるやん。
切羽詰まった人間がバカなことを考えるのを見て来た経験があるから「現金を渡す」て助け方は選ばない、私は。
自分が使える自由な時間を確保するために、私は金を捨ててる。
時間も金も提供できる優秀な人間てそう多くないと思う。
金は私なんかより他の人のほうがよっぽど稼ぐから、その人が寄付したらいいやん、世の中ねぇ役割分担、分業制よ。
己がしっかり生きるための経済力しか持ってないなら、時間を確保して労力を寄付する方法があると思ってる。
金も時間もスキルも、同じように提供できるものやんか。
私が持ってるスキルは盆踊りだから盆踊りを一緒に楽しむ時間を寄付。
「健康で文化的な最低限度の生活」は衣食住が整っていることがまず基本、ソコは「健康で」の部分でしょ。
その上で精神の安定に繋がる何かが必要で、盆踊りはそのひとつ。
「文化的な」の部分だよね、心身の健康を保つための最低限度の生活として、衣食住と文化が要る。
「要る」条件を満たしている状態で寄付をする、てのが寄付の鉄則だと思うのよ。
ボランティア活動もね、己の面倒が見れてないのに手を出したって迷惑なだけなの。
腰立ちません、膝に水が溜まってる、ゆくゆくは手術が必要になってくるみたいだけど~て人がね、難病を抱えてる私が盆踊りのボランティアしてるって話をするとこう言うわけよ。
「2か月に1回行くくらいなの?それなら私も健康のために盆踊りのボランティアグループにでも入ろっかな~」
「入っていらん!スムーズに動けてからボランティアしてくれ!暇やからボランティアやってんちゃうねん、暇を作ってボランティアやるんやで。実際にボランティア行くのは2か月に1回やけど稽古は毎週あんで。動けないなら『おとなしくしとく』ちゅうボランティアをやりなはれ。いつか労力として役に立つように今はしっかりと健康を整えることに時間もお金も使うのが自分に出来るボランティアや。傷つけたいわけじゃないねんけどごめんな」
ハッキリ言っちゃうとスッカリ嫌われちゃうけど、嫌われても言わな変わらんコトあるもんな~て思って言う。
寄付やボランティアのフィルターがかかると気持ちを汲んで「いらんもんはいらん」て言いにくい雰囲気があるし、実際、言わない。
現場で何度も目撃してるけど、陰で文句は言ってるのよ、みんな。
「じゃぁ本人に言えよ、そしたら行動が変わるかもしらんやん、言わずに受け入れてるといつまでも迷惑なだけやんけ」
て言うと、返事はだいたいこう。
「え~~~ハッキリとは言いにくいやんか…善意でやってくれてるのはわかるしなァ…言われたら気ぃ悪いやろし」
意識改革て痛みが伴うからな、嫌われ役は誰でもイヤだしねぇ…やるやる、ワタシヤリマース。
自立を促すことや生産する技術に繋げる金の使い方を出来る人間がいないと、金があっても意味のある使われ方はしないじゃない。
金だけ渡して使い方を教えずダメになってく人間を身近にも見てきてる人、多いと思うけどなァ。
「あんなコトになってしもて…せっかくの助けが水の泡やな」て失敗談もよく聞く。
環境を整え人々が自活をすることに金を使い、意識の向上や技術力を高めることこそが支援で、問題解決力の根本は客観的判断と自立かなて思う。
磨き続ける努力も必要で、そのサポートをするのに必要なのは適応力とか経験値じゃないかな。
己の心身の健康がある上で継続することが前提、その条件を満たして手を出すのがボランティア、私は。
「寄付したい」「助けたい」「役に立ちたい」という気持ちが芽生えた時、それが自分を満足させるのか他人を満足させるのか、行動する前に考えてみよ、それが「ボランティア精神」てヤツじゃないのかな。
自分の行動によって新たな労力が発生するなら、自分の行動はそれじゃないのではなかろうか。
自分の行動によって新たに生んでいるのが「協力」なのか「労力」なのか、判断が非常に難しいことではあるけど、自分に置き換えてみれば簡単。
難病を飼い慣らしている時分は盆踊りのボランティアに参加してたけど、新たな病巣も見つかり救急車に乗ることもある病状になったので、おおかた元気に過ごせる体力はあるんだけど現在、私は盆踊りのボランティアはお休みしている。
けれども長く一緒に活動してきた代表は時々こう誘ってくれるの。
「ウマさんお稽古来なくても本番いけるから本番だけでも来てみない?体調がよければ。無理したらアカンけど来れるようなら、と思って」
「ありがとうね、お声掛けいただいて。元気な日のほうが多いねんけどね、いつ倒れるかてのが予測できひんのよ、急に倒れんねん。もし訪問先でそうなったらドえらい迷惑やから、今は行かれへんわ。復活できるように身体に集中するわね」
プロ根性とは「やらない判断」が出来ることではないかとおもう。
自分にしか出来ない事だと自分の能力を過信すれば無理をしてでもやり抜くことするし、それを「責任感」とも呼びがちである。
しかし真の責任感とは「誰かが自分の代わりをしてくれる」と、他人を信じて任せることが出来ること、その状況をいつ何時も準備出来ていること、ではなかろうか。
キツいことを言っても信頼して任せ合える仲間がいてやっとプロになる。
だからプロになるのは難しいのである。
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