【蘇る本能】数字にこれっぽっちも縛られない、ソレ本能の生き残り。
「今49で~18で関西に来たから~…」
私は電卓を叩いた。
「31年か~…すごいな31年住んでて兵庫県て台風が来た実感あったの1回やで?少ないよな~宮崎なんて毎年直撃してんのに。こっち数年前に停電になったヤツあったやん?あの1回しか経験してない、アレしきの台風で停電やで?ぃや~ほんと台風来ない県やで兵庫は」
「…すごいな…」
「すごいよね~少ないよね~宮崎の台風アレの3倍くらいの勢力で5~6回は上陸すんのにね」
「…49-18の計算で電卓使うんや…」
「…へ?」
兵庫県の台風の少なさがスゴいてハナシでなくて?
私が49-18で電卓叩いたコトが台風より話題になる感じなのか?
私のカラダにはいくつかの「本能」が残っている。
本能は文明に慣れることで機能しなくなってしまうのだが、消えてなくなるわけじゃなくて文明から離れると蘇る。
そのひとつが「カンが冴える」本能である。
二桁の数字で電卓を使う日本人はおらんのか
「49-19が30になるのはわかるやろ?」
「へ?なに?暗算?ひっ算で?」
「ひっ算でも何でもいいけど…19なら同じ位のトコで同じ9引くから0やん?電卓使わんでも簡単やろ?」
「う…ん…まァ…考えたら30になるのはわかるけど…何のハナシしてる?私のやりたい計算は18を引きたいのよ?なんで19引いたん?」
「いいねん・いいねん、まず19引いて30になったやろ?でも18やん?引きたいのは」
「最初から18やねん、一言も19てゆぅてへんのよ、どっから持ってきたんその19?何の19なん?何の説明してんの今?」
「簡単に出る30のために19引いてんねん、本当は18引きたいんやから1足すねん。31になるやろ?」
「私、電卓取るのに一歩も動いてないねんな?右手伸ばしたら取れる位置にある、電卓の定位置ココな。暗算したいとか思ってないねん、電卓叩くほうがもっと簡単に出る」
「そうなんや…」
「暗算で計算してる人たちて、そんなコトやってんの?関係ないウソの数字引いてから、本当の数字にするために足すん?引くだけでは足らんのか?引きたいのか足したいのかわからんな…二度手間なことしてへん?」
「いや…してないねんけど…引くだけで出してるけど…いちいち電卓でせんでも簡単に暗算出来る考え方てコトやで」
なぜ人々は私が電卓を叩くと「わざわざ」と言うのであろうか。
一桁の数字を10にする四則演算以外の計算は全て私は電卓を使うのだが、二桁と一桁の数字で電卓を使うと日本人なら99.9%くらい「わざわざ電卓使わんでも」と言う。
私は「わざわざ」は使ってねぇのだよ。
「使うべくして」使ってんだよ。
暗算で計算して答えを出したいなんて、これっぽっちも思ってない。
なのにどうしてだろうか「暗算出来ると簡単便利で早くて賢い」みたいな認識があるよね。
計算が出来るとカンが鈍るんだけど。
私にとっては「カンが鋭いと便利」のほうが暗算出来るより勝つのだが。
暗算出来る賢さより、カンが使える賢さのほうが勝つのだが。
数字に縛られるとカンが鈍る
私はいろんな人に「運とカンだけで生きてる」と言われるのだがその自覚がある、運とカンだけで生きてきた。
その「カン」のほうであるが、これは数字に縛られる生活をすると鈍るのだ。
私は関西に住んでから時間を守るようになり、30分くらいしか遅刻しない。
宮崎に帰郷して父の養鶏を手伝うのに「9時から仕事するわ」と言って9時半に鶏舎に到着したら「オマエ関西に行ってから日向時間が治ったな」と褒められた。
宮崎には日向時間という時間が存在しており30分の遅刻は時間通りに来ているので、遅刻ではない。
日向時間で「9時」と言ったら「10時半~11時」くらいのことである。
しかし関西では30分遅刻すると、信用が得られない。
私は宮崎では「日向時間が治った」と高評価されているのに、関西ではまったく信用が無いのだ。
私は関西で日向時間が治ってからカンが鈍って鈍ってしゃ~ない。
一番カンが鈍って困るのが、駐車場で満車の表示の時に「ココ空いてる」てカンがハズレる時ね。
3回に1回くらいしか駐車スペース空きのカンが当たらなくなったのですんごい困ってる。
それでも関西人にしたら3回に1回当たるカンは多いほうらしく「ココ入って」と言って駐車スペースが1台分空いているのに当たると「さすが運とカンだけで生きてるな~」と褒めてくれる。
私が関西でも日向時間で生きていければ、駐車スペース空きのカンは百発百中なんだよ、宮崎でこのカンがハズレたコトなんて無いんだから。
「田舎だから車自体が少ないんだろ?」と思うであろう。
逆だよ、諸君。
田舎はね、車しか足が無いのだよ。
交通機関が麻痺状態である宮崎は車社会で、一家に一台ではなく一人一台の世界なので、通勤時間にはとんでもない渋滞が起こる道があるのだ。
駐車スペース空きのカンは、宮崎では絶対に必要なの。
駐車場でハザードたいてどこかの車が出るのを待つという光景を私は宮崎で見た事がなかったので、関西でそうやって駐車スペースが空くのを待っている車を見てずっと「何してんの?」と思ってたよ。
宮崎人は日向時間の人が多いので「空き」をカンで当ててるんだと思う。
当ても無く待つなんて宮崎では誰もやってないけど、関西人は時間を守る人が多いので、この本能を誰も使っていないらしい。
数字に縛られてしまうとカンは鈍る。
時間で行動したり、計算が出来たり、時計を見る回数を増やしたりすると、カンは鈍ってしまう。
炊飯の水の量を釜の目盛り線で決めたり、食パンを焼く時にトースターの目安の数字に合わせてチンと鳴るのに任せたり、起きるのにアラームを使うとカンなんてあっという間に鈍ってしまう。
最近、キッチンの壁掛け時計の電池が切れた。
電池のストックはあるのだが、時計の位置が少々高くてものすご~く頑張って外さなければならず椅子持ってって外すのも面倒で5日ほど放置していたところ、なんとその5日間で私のカンが冴え、アラームより先に起きてアラームを鳴らないように止めるようになった。
たった5日間でも文明から離れると本能は戻るんだね。
しかしかといってずっとアラーム無しで起きれるほど自分を信用することは出来ないので一応アラームはセットしとかないと不安だ。
相変わらず止まったキッチンの時計を見ない生活による冴えわたったカンで、アラームより先に起きる、絶妙に8分前とかに起きる。
余裕を持って起きれるみたいだからアラームなんてやめようかな、と魔が差す。
アラームだけカンに頼って寝坊したらアホくさいで、だってもう関西の生活が長くていろんな数字に目を向けてんだもん、カンを取るか文明を取るか。
ジレンマを抱えるので渋々キッチンの時計の電池交換をして頻繁に見るように心掛けた。
無事、アラームが鳴ってから起きるカンの鈍さが復活した。
私は文明に屈し、数字に縛られて関西で生きている。
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