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柔らかく温かな言葉が、だれかの首を絞める真綿になる可能性について

「おまえが『早稲田に行きたいです』って言ったんやろ、だからおまえの責任や」と親父は言った。実際にはそれは「言わされた目標」だったのだが、親父はそれを言質としてぼくを殴り続けた。

子供はこちらが思っている以上に、いろんなことを理解している。どう振る舞えば怒られないか、機嫌が悪くならないか。植え付けられた恐怖心は、年齢が上がるとともに相手の感情を鋭敏に察するセンサーへと進化を遂げる。そして、求められている言葉を瞬時に差し出す癖がついてしまうのだ。

「早稲田に行きたい」とたしかにぼくは言った、と思う。「と思う」と付け足すのは、その際の記憶が曖昧だからだ。おそらく父に「おまえは将来どうするんや、どこの大学に行って何を学ぶんや」と詰問されたときに絞り出した返事だったから、極限の緊張状態にあったのだろう。言葉を、声のトーンを、抑揚を、ひとつでも踏み外せば拳が飛んでくる。その質問に即座に「早稲田の法学部に入ってパパの弁護士事務所を継ぎたい」と答えることができたのは、骨の髄まで染み込んだ反射神経のおかげだ。

のぶみ氏の発言が炎上するたび、親父の「おまえが言ったんや」という台詞を思い出す。そう言われてしまうともう、ぼくは何も言い返せなくなる。たしかに言ったのはぼくだから。それは事実だから。自分が宣言したことに責任を取れないのなら死ぬべきだという父の主張は、もっともで筋の通ったものだと、そのころ本気で思っていた。

被虐待児は自己肯定感が極端に低い。生まれて初めて直面する人間関係である「家庭」において肯定というものをなされずに育てば、健全で正常な自信など芽生えるはずもなかろう。そうすると、すべての理由を自分の中に探し始めるのだ。ぼくが悪いから、ぼくがうまくできなかったから、ぼくが責任を取らなかったから……。自分の絶対である親の言うことであるのならばすなわちそれが正義だと疑うことを知らず、どれだけ破綻した主張も正論だと信じ込んでしまう。このような、ある種洗脳下に置かれた状況なら、歪んだ思考に帰結するのも無理はないと、今ではさすがに自分でも思うことができる。ただあのころのぼくは、繰り返しになるけれど、本気で自分が悪いと思っていた。「言わされた」ことにすら気がついていなかった。

父と自分の境界線が、ずっと淡く滲んでいた。ぼく自身すら、ぼくが父とはまるきり別個の存在だと認識できたのは、きっと成人してからだと思う。

現在進行形で虐待を受けている児童がのぶみ氏のあの主張を聞いたら、どう思うのだろう。あなたが選んだことだから、あなたが責任を引き受けなければならない、そう言い切られてしまったら。もしあのときのぼくがあの言葉を目にしてしまっていたら、絶望に四方を塞がれ、呼吸ができなくなっていた。自分の責任を果たすことができなかったのなら死をもって償えと言われていたぼくは、実際に死ぬことを試みさえした。自分で両親を選んだのにその期待に応えることができないのならば、すなわち全面的に自分が悪いと、そんな思考に陥らないほうがむしろ不自然なのではないか。

彼の言葉に救われた人だって、いるのかもしれない。ぼくは子供を持たないという選択を現状しているから、子育ての苦労はわからない。追い詰められたお母さんたちの心を慰撫し、励ます言葉なのかもしれない。だが、それを子供に突きつけるのは違う。

親の癒しや救いになる言葉が、子供にとってもそうとは限らない。同じ言葉であっても立場が異なれば、それは受け手によっては首を絞める真綿になる。親の心を温めてくれる言葉がそのまま子供に向かったとき、子供を文字通り死に追いやる場合だってあるのだ。生物としての死はもちろん、精神の死という意味合いでも。

大人が読む、大人にとっての本を書く人だったら、ぼくだって憤ったりしない。見ないし触らないし、自分でシャットダウンする。しかし、彼は絵本作家だろう。児童が触れる文学を生み出す人間だろう。あの言葉が、もしもあのときのぼくのような子供の目に触れたらと、それだけで息が詰まる。

彼の文章を、彼の言葉に救われた人を、否定したいんじゃない。それ自体はいい。ぼくとは別の世界で生きる人たちなんだな、そういう感じ方をする人もいるんだな、と、そう肩を竦めるだけで終わる。ただ、あの言葉が孕む計り知れない暴力性を、見せる側の大人たちは考えなければいけない。それは本当に、だれの心にも、等しく希望を灯すものなのか。

どんなに柔らかく温かに見える言葉でも、だれかを取り返しのならないところまで損なってしまうことは現実にあり得るのだ。ものを書く人間として、ぼくはそのことだけは、死んでも忘れまい。もちろんこの文章がだれかを傷つける可能性だってあることも、ぼくは知っている。知った上であえて、このまま、公開ボタンを押す。

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伊藤チタ
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