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澄んでゆく日々のこと

秋になって心地好い日がつづきますね。
お元気ですか。元気でも、元気でなくても。





八月の後半に、大きな喪失があり、しばらくしずかにすごしていました。
泣く以外のことがじょうずにできなかった日々をこえて、いまはおだやかに日々を送っています。

本を読んだり、横になったり、具合のよいときは散歩して、草木を眺めて、写真を撮ったりしています。いつも通りと言えばいつも通り、でも、たくさん泣いたあとは、視界が白くかすんで、世界がとてもきれいに見えました。


いつもとちがうことがひとつあって、水彩画を習いました。
じょうずに声を出すことができないあいだ、ただ黙々と色だけに向きあうしずかな時間は、とても優しかったです。

本もたくさん読みました。弱っているときは、読めるものが減るいっぽうで、ことばはどこまでも深く寄り添ってくれる。
ゆっくり読んで疲れてそのまま眠ってしまったこともあったけれど、そういう時間がたくさんのものを養ってくれた気がします。



ちいさく、だれのためでもなく、日々のことなどことばを書き連ねていました。

雨のふった日のこと。窓の外の小鳥のこと。なんでもないような、ちいさなことを、淡々と書いてゆく日々でした。

痛みがあるとことばは慎み深くなってくれる気がします。
消えいりそうな小さな声で、涙をこぼすように、それでもなお、たおやかにほほえむように、ものを書いてゆきたいと思いました。



水辺もきれいでした。くもりの日の白い海。

手のひらでそっと水にふれて、そのはるけさを眺めてすごす。
そうしていると、私の内側にも、ひたひたと波うつ水があることに気づいて、そのどこまでも豊かな水が内にも外にもあって、ぜんぶはつながっているような、そんな気がしました。


すこしずつ秋が深まっていって、どこを歩いていても実とよく会います。青かった実がすこしずつ色づいてゆく。
南天。椿。じゅず玉。稲も。



そうしてゆっくりとみのってゆく姿を眺めながら、私もすこしずつ盈ちていった気がします。



雨がふったり、あがったり。波が寄せたり、返したり。
時がすぎること、季節がうつろうこと。実が色づくこと。ゆれる水面。祈るようにこぼされただれかのことば。
人が癒えてゆくとき、それはただひとりで行われるわけではなくて、そのまわりにはいつもそういう優しい流れがあるのだと思います。

そして私自身も、その流れのひとしずくなのだと思うと、粛然とした気持ちになります。



やさしく凪いだ海でありたい。
最近いちばん思うのはそのことです。しんとしずかにそこにある、やさしく凪いだ海でありたい。ことばもそうであったらいいな、と思います。



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