Swan Song(感想1)_おぞましいほど醜い地獄絵図のなかで、見いだす希望
『Swan Song』は2005年7月に発売されたビジュアルノベルで、シナリオライターには瀬戸口廉也が関わっている。ブランドはLe.Chocolatから。
ゲーム内はたいてい曇天か降雪のため、冬の寒い時期にプレイしたくなるゲーム。年末から2週間くらいかけて久しぶりプレイしてみたが、精神的に削られる場面が多数あるためどうしても時間がかかる。
以下、ネタバレを含む感想などを。
過酷な環境で問われる人々のモラル
クリスマスイブの雪深い温泉地の地方都市、大学生の尼子司は自販機へ飲み物を買いに外へ出たところ、これまで体験したことの無いほどの大規模な地震にあう。
家屋は押し潰され、どれほどの生存者がいるか分からない状況で取り敢えず倒壊した自宅から必要なものを持ち出して、どこかへ避難しようと再び外へ出たところで、瀕死の女性から妹であるという自閉症の女の子あろえを託される。
その後無人の教会へ避難したところ、ケーキ屋でバイトをしていた田能村慎、さらに同じ大学に通う鍬形拓馬、川瀬雲雀、佐々木柚香も後から合流する。
その後6人は水没した街を筏で渡り、多くの人が避難していた学校へ辿り着くことでいっときの安寧を得る。
しかし外部からの救助はおろか通信すら途絶えた状況で徐々に物資が困窮していき、新興宗教の『大智の会』との諍いもあって徐々に事態が悪化していく。
空は昼でも太陽が見られることはなく曇天か雪が降り続く状態で、食事はスーパーなどに残った缶詰など保存食を中心に食料品を漁る生活のため先が見えない。
モラルを試される厳しい環境において、人々が何を考え何に幸福を見出すのかということが問われる。
過酷な環境で欲望に忠実に生きる
地震によって様々なものが破壊され、雪に閉ざされた環境では最低限のインフラはおろか、法律や警察も機能していない。そして警官だって所詮はただの人だからと若い女性を攫って強姦して殺しているという描写が恐ろしい。
そんな過酷な環境では法律に従ったところで長生き出来ないし、自分を咎める存在もいないのならばと好き勝手にやっているのだろうが、もはや規律の無い戦場のようですらある。
だからなのか学校は自警団をつくるが、やがて自警団が権力を行使しはじめると、今度は粛清を恐れて身内の誰もが自警団に意見を言いづらい空気が醸成されていく。
それはまるで軍隊によるクーデーターの起きた国のような不自由さを感じさせる。
自警団は、元自衛隊の飛騨がリーダーシップをとっていたときはまだ統制されていたが、鍬形たちは大智の会から攫ってきた捕虜の女性を集団で強姦するのを、戦って死ぬリスクがあるのだから「福利厚生」だと正当化する発言から状況の異常度合いが伝わってくる。
このような社会常識が通用しなくなった非常事態において、ヒエラルキーの最下層に存在していた、いわゆる陰キャの鍬形がトップに上り詰めるというのが興味深い。
平常時なら鍬形に人を扇動出来るカリスマ性は無いのだが、白か黒かの決断を即決する鍬形の言葉には、厳しい環境において「現状が変わるなら」と、何かに縋りたくなる人々の心の隙間にスルリと入り込んだ。
即決することのリスクについて
学校に集う人たちが、罪を犯した人への対応ついても決断を迫られる場面も重い。
学校の物資を持ち去り、殺人まで犯していた若者3人を捕まえたが、彼らを裁くのか否かということが話題になるも、多数の意見が危険な人物を捕まえたことへの感謝ではなく、捕らえてきた田能村に対して「厄介事を持ち込んだ」と捉えているのが苦々しいが、平常時は警察や法律が自動的に裁いてくれるのだから、現実もこんなものかと思われる。
田能村が鍬形へ指摘していたが、最も重い判断は非常時とはいえ殺人を肯定するのか?ということだ。
少し横道に逸れる。
日本人はどうも物事を割り切って考えたり、論理的に考えることが苦手なところがあると言われる。
会社勤めをしていると、会議をそのものに意味を見出す上司のせいで、「何も決まらない会議」に参加させられることが何度もあって本当に嫌な経験をしたものだが、しかしそれが悪いことだけかというと、良い面もあったとも思うのだ。
つまり、何も決断しないことで時間が経つと不思議と物事が良い方に向いていることもあるのだ。
断っておくが、何も決断しない会議や上司を肯定しているのではなく、即決するよりも現状維持の方が良い選択だったと思えることもあるということを言いたい。
本作の場合であれば、現状維持でなんとか冬をやり過ごせば、いずれは外部と連絡が取れて、多くの人が助かる可能性もあった。
なにより殺人を肯定してしまうと平常時に戻ったときが辛い。大戦中に戦地へ赴いた人が戦時中のことを語りたがらないのは、海外に赴いた際に現地住人の食料・土地・命を奪った行為が、後ろめたさになっている部分あると思うのだ。
なぜなら、現代にそんな過去を告白しようものなら「それは非常時だったから仕方無かった」と全ての人が考え無いだろうから。
Swan Songと付けられたタイトルの意味
物語の終わり方は、ほぼすべての登場人物が死に絶えるNormal Endと、中心事物たちが生き残るTrue Endと2種類存在するが、プレイ後の余韻としてはNormal Endの方が圧倒的に強いというか物語の重みという点で考えさせられるところが大きい。
『Swan Song』というタイトルがつけられた意味について考えてみる。作中では乃木妙子と尼子司の会話で少し触れられており、みにくい声でしか啼けない白鳥がせめて最後だけは美しい声で歌えると信じているからこそ希望を見いだせるとあった。
この言葉がどこに重なるのかというと、Normal End終盤の司から柚香に向けられた言葉に重なってくると考えた。
心の内に抱えた醜いものを吐露する柚香に対して、死の間際にある司は、「醜くても、愚かでも、誰だって人間は素晴らしいです。幸福じゃなくっても、間違いだらけだとしても、人の一生は素晴らしいです」と投げかけている。
司は右手を怪我してしまい過去のようにピアノを演奏出来ないことを分かっていながら、それでも粘り強く努力を続けてきた。
つまり現実的には不可能なことへ挑戦し続けているわけで、その言葉には「結果が伴わなかったとしても死ぬ間際くらい、たとえ嘘でも自分だけは自分の人生を素晴らしかったと振り返って欲しい」という思いが込められているのではとはと考えた。そこには司の辿り着いた生きる意味や希望の様なものを感じられるように思えるのだ。
長くなって来たので、本作の中心人物となる6人「八坂あろえ、田能村慎、川瀬雲雀、鍬形拓馬、尼子司、佐々木柚香、」についての深掘りは次回に。