20世紀のポスター[図像と文字の風景](感想)_幾何学デザインによる機能的なポスターの美しさ
2021年1月30日から、東京都庭園美術館で開催している20世紀のポスター[図像と文字の風景]展へ行ってきたので、その感想などを。
本展に展示されるポスターは、1920年代以降ヨーロッパの幾何学的なデザインを扱った「第1章:図像と文字の幾何学」、それら構成的デザインをルーツにもつ「第2章:歴史的ダイナミズム」。
それらに逆行するような1970年代以降のポスターを展示する「第3章:コミュニケーションのありか」の3章に分けて展示されている。
要約すると、旧朝香宮邸には幾何学的なポスター(1~2章)が、新館には構成主義に逆行するようなポスター(3章)が展示されていた。
文字情報とシンプルな図形のみで構成された画面の緊張感
エントランス入ってすぐ「ヨゼフ・ミューラー=ブロックマン」デザインによるコンサート告知が展示されているのだが、色使いもシンプルで緊張感があり、いかにもクラシックコンサートの優雅なイメージを纏ったデザインのインパクトがすごい。デザインによるコンサート告知が展示されているのだが、色使いもシンプルで緊張感があり、いかにもクラシックコンサートの格式高いイメージを纏ったデザインのインパクトがすごい。
アルファベットの「b」を画面からはみ出すほどの大きさに少し傾けて配置し、bの中に描かれた円弧が細切れになっているのは音の反響を表現しているかのようだ。(幾何学的な円弧の配置は、放射状に32分割されたうえで分割されているらしい)
このポスターにが伝えるべき最も重要なメッセージ、”演目が何なのか”を伝える「beethoven」の文字サイズは、ポスターのサイズに対してものすごく小さいが、文字の周囲にほどよい空白があるため、真っ先に目線が行くように計算されている。
「ヨゼフ・ミューラー=ブロックマン」デザインのポスターでは、演目にマーラーを告知するポスターもよかった。リズミカルな色彩が画面全体の明るさを強調しているが、文字情報を黒に統一することで画面全体が引き締まって優上品な雰囲気を失っていない。
「エミール・ルーダー」や、「アルミール・マヴィニエ」の展覧会告知も良かった。単純で幾何学的な図形と最小限の文字情報によって構成された画面だが、美しく配置された文字情報と、適度な空白のバランスが見ていて心地よい。
ポスターはアートと違って、機能的な役割を持つ
私にはドイツ語やロシア語を読めないので、今回の展示ポスターに掲載されている情報のすべてを理解することは出来ない。だが、展示されたポスターの持つ機能的な役割はなんとなく感じ取れていたと思う。
どういうことかというと、まずポスターにはコンサートへ集客したり、政治的なメッセージを簡潔に伝えるという広く様々な人へ周知させる目的がある。
また、ポスターは主に街中に貼られるので、遠くから視界に入っても何が告知されているかを一瞬である程度どんなポスターなのかわからせる必要がある。そうして、興味を持った人が近寄ってあらためてポスターを見た時に必要な情報が過不足なく含まれているという機能性が必要だ。
また、ポスターのデザインは、コンサートや展覧会など告知期間が終わればその役目お終えるため、消費されるスピードが早い。
そのためポスターには美術館に展示されているとはいえ、アート作品とは少し違った機能を持つことになる。
そうした、伝えるべきメッセージを表現するために、色やモチーフ、書体、レイアウトが機能的に配置されていれば、言語を理解出来ずともうっすらと感じることは出来るのは、単に美しい画面を構成しているだけでなく、ポスターとしての機能も優れているからだろう。
第1章で展示されている1900~1960年頃のコンサート告知ポスターは、時代的にクラシックコンサートの告知となっている。
余談だが、無駄な装飾を取っ払って機能的な美しさを追求するという表現は、私の感覚ではテクノミュージックのビジュアルイメージを連想させると思った。
ダンスフロアで特大スピーカーをつかって大音量で鳴らし、人々を踊らせることに目的を特化したテクノミュージックは家で聴いてもその魅力がほとんど伝わってこない。
歌詞も無いためメッセージ性は音と曲名から判断するしかないわけだが、そういう「機能的な音楽」であるテクノミュージックを表現するとき、シンプルに文字要素だけでビジュアルがと親和性が高いのはある意味必然なのかもしれない。
デザインする手法とデザインについて
冒頭、本展示は3章に分けられていると記載したが、私の好みとしては1章に展示されているシンプルなポスターが好みだった。
新館では、第3章「コミュニケーションのありか」として1980~90年代のポスターも展示されているのだが、それまで展示されていた構成的デザインと逆光するようなデザインも紹介されている。
「ヴィリィ・クンツ」によるポスターは緊張感があってよかったが、構成主義への時代的な逆行として、写真のコラージュやいかにもデジタル加工された表現ものデザインも増えてくる。これはMACによるデザインが普及したことで生まれた側面があって「MACを使って出来るデザイン」しかつくられないという制約が生まれているのも確かだ。
制約のあることを悪いと言うつもりはないけど、デザイン技術がなくともMACを使いこなせさえすればアウトプットが可能になって、似たようなデザインが乱造されるDTP普及以降の状況を見てきた私には、これらの表現に対して感じる印象としてまだ懐かしさを感じるには早くて、むしろ生々しさがあるため少し退屈に感じられた。
告知媒体の変化
現代ではかつてポスターの持っていた、なんらかのイベントやメッセージを視覚的に告知するという役割が現代では、タブレット・スマホなどで表示されるバナー広告などに置き換わっている。
何気なく見ているこれらの表現方法がまとまって美術館などで展示される機会は少ないが、時代を写す鏡という意味での価値はあると思うのでいずれそういうのが体系化されたものを見てみたいと思った。
また本展の最後には、展示されたポスターで主によく使用されていたフォントについても紹介されたいた。
・Akzidenz Grotesk
・Univers
・Future
・Helvetica
私はAkzidenz Groteskというフォントを知らなかったが、他3つは私でも知っているし、汎用的に使用されているフォントだ。告知媒体がポスターでなくなったとしてもフォントとして生き残っているというのは、それだけ完成度が高いということで本当に凄いことだと思う。