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フレンチ・ディスパッチ(感想)_ベタで軽快な笑いどころと、小洒落た映像

『フレンチ・ディスパッチ』は2022年日本公開のアメリカ映画で、監督はウェス・アンダーソン。
ウェス・アンダーソンの他作品と比較して全体的なストーリー性は薄いため初回は楽しみ方がよく分からなかったが、2回目はすんなり楽しめた。
以下、ネタバレを含む感想などを。

雑誌を映像表現に置き換える

『フレンチ・ディスパッチ』はアメリカの新聞『カンザス・イブニング・サン』の別冊となる架空の雑誌。編集部はフランスのアンニュイ=シュール=ブラゼ(やはり架空の街)に構え、テーマは国際問題、政治、アート、ファッション、美食と幅広く50カ国50万人の購読者がいる。

アメリカの新聞社の編集部がフランスにあるという時点で何やらややこしいが、この映画は雑誌『ニューヨーカー』創業者のひとりとなるハロルド・ロスと、その後継者ウィリアム・ショーンに影響を受けているとのこと。

冒頭創刊者アーサー・ハウイッツァー・Jr(ビル・マーレイ)が亡くなったことで遺言通りに廃刊となり、この映画は創刊者への追悼となる最終号へ掲載される記事の紹介となる。
つまり本来なら、文章やイラストまたは写真によって表現されるような雑誌記事が、映像表現へとメディアが置き換えられていることが本作の特徴となる。

全体的にセリフ量が多く字幕を追いかけるのにひと苦労で、時系列も前後するから現在地がタイムラインの把握に苦労する。そして致命的なのは過去のウェス・アンダーソン作品と比較して著しく全体のストーリー性が薄いせいか、初回は楽しみ方を見つけづらい映画だった。

ただ軽快でベタなコメディ要素が満載だから、二回目に観た際は軽い気持ちでなんとなく眺める分には楽しめた。真剣にストーリーを追うというよりざっと流し見するくらいがちょうど良いのかも。

私は『ニューヨーカー』を読んだことは無いのだが、この映画の特徴的な表現について、一般的な雑誌の特徴を整理しながら考えてみる。

何が飛び出すか分からない

たいていの雑誌は専門誌でも無ければ、特集記事の他に連載コラムや細々としたニュースなど幅広いテーマが掲載されている。
ただし定期的に購入している雑誌であっても興味の持てない情報も掲載されており、全てのページを網羅的に読むことは稀だった。
”だった”と過去形なのは、かつて私も月に2~3冊程度の雑誌を購入していたが、ちょっとしたニュースや情報であればネットでつまみ食いすれば済むからもう10年以上雑誌を購入していない。

購入した雑誌はなんとなく毎度同じような順序で読むけど、興味を持ったページから目を通すことになる。
今にして思えば興味の無い記事でも目を通してみると意外に面白かったりして、次に何が出てくるのかという予測のつかない期待感があった。似たような情報ばかりレコメンドされるネットメディアとの一番の違いはそこにあると思う。

短い文章であっても感情を揺さぶるものもあって、読者に考える余地や余韻を与える記事は特に印象深かったりする。
とにかく掲載される情報は生きるために必要不可欠というわけではないけど、知識を得ることで人生を豊かにしてくれるものだったと思う。

雑誌のサイズはたいていA4くらいで嵩張るから購入した全てを保管することはなく、たいていは数日~数週間で捨てられることになって読み返すことはほとんど無い。
だから得られた情報や感情は数日~数週間程度のスパンで消費されていく。『ニューヨーカー』も週刊誌だというから、そういう扱いだと思う。

この『フレンチ・ディスパッチ』も4人の記者それぞれに、地域の紹介、抽象絵画、学生運動、食とテーマがバラけていて、次に何が飛び出るのかという期待感や、直ぐに消費されそうな軽めな内容はまさに雑誌のようだと思った。

残念なのは、創刊者アーサー・ハウイッツァー・Jrの個性や性格があまり伝わって来ないせいで全体のまとまりやストーリー性が薄くなっていること。特徴的だったのは編集部のドア上に「No Crying」と刻まれているくらいか。
いずれにせよ映像は雑誌と異なり決まった順序で観賞することになるため、全体のストーリーやそれぞれのエピソードの繋がりを探りたくなるけど、そういう固定観念を取っ払った方が楽しめると思う。

印象深い、いくつかのシーン

創刊者の登場シーンが少ない分、それぞれの記者の個性が前面に出ており、取材対象と深く関わるからこそ浮かび上がってくる人格がユニークだった。特に印象深い3つのエピソードを挙げてみる。

まずベレンセンによる記事「確固たる名作」での、性行為を終えたと思われるモーゼスとシモーヌが天井を見ながら語るところ。

愛の告白をしようとしたモーゼスに対して、言葉を遮るようにして「愛していない」と返すシモーヌ。モーゼスが続けようとするのを「拘束衣を着せて独房へ連れ戻すわよ」とまで脅す。
なぜシモーヌはモーゼスの告白を最後まで言わせないのか。

やがてシモーヌは看守を辞めて大金を手にすると、若い頃に産んだ子供と暮らすようになり、モーゼスとは亡くなるまで文通を続けたとだけあるが、心の内側はよく分からないまま。

シモーヌはきっと、モーゼスの創作の原動力はシモーヌを求める渇望にあると気付いていたのではと思われる。
なぜそう感じたのかというと、絵画の前を右に向かって歩くシモーヌをスロー再生するシーン。
この演出によって、シモーヌの存在がどうしたってモーゼスの手に入れられない憧れのような気持ちを想起させる。
つまりモーゼスがシモーヌと結婚することで満たされたら、創作モチベーションも失ってしまうと考えたからこそ、敢えて愛の告白を受けようとしなかったのではと考えた。
そうして作品のモチーフとなることでシモーヌ自身はある意味満足していたのかもしれない。何しろ愛は手に入れるまでが一番楽しいのだから。

「宣言書の改定」でのルシンダ、ゼフィレッリ、ジュリエット3人のやりとりも良かった。
言い争うより二人でセックスすることを促されたジュリエットが「私はヴァージンよ」と告白するのにゼフィレッリがルシンダをチラリと見ながら「僕もだ、彼女を除けば」と返答すると、ルシンダが「やっぱりね」と無表情に呟く。
たったひと言だけど、言葉選びが秀逸でこの言葉には複雑な感情が込められていると考えられる。
ルシンダはプライドを持って記者の仕事をこなすも、たまに独り身の寂しさを感じている。
歳の離れたゼフィレッリを束縛するつもりも無かったろうが、若いジュリエットに取られる悔しさも僅かにあると思われ、しかしわざと印象を悪くする言葉選びによって後腐れなくしたのではとも思う。

ゼフィレッリのベッドでの行為を貶めることでわざと反感を買い、「満足出来なかったから別に惜しくない」とたった一言に込めて強がって見せることでプライドも保てるところに、齢を重ねることの可笑しみと悲哀を想像させる。

そうして「警察署長の食事室」で、記者によって掲載を見送られかけたネスカフィエの言葉では、故郷への溢れ出る思いが伝えられる。

ネスカフィエは移民として生きていくことの辛さを吐露するが、その辛さは皆から失望されないために、毒だと知りながら口にしなくてはならないほど。
自ら盛った毒の味によって故郷の記憶が呼びおこされ、故郷へ置き去りにした何かを探しているも、それが何なのかは表現が曖昧すぎて具体的に何を指すのかが不明なまま終わる。

たいていの移民は、治安の悪化であったりまたは仕事が無かったりと、なんらかのやむを得ない事情によって故郷を離れる。
しかし故郷は自分の生まれた土地であり、それそれぞれの土地に郷土料理があるように、振り返れば現在の自分によって良い影響を与えた記憶もあったと思うのだ。
そして記憶というのはその人をつくりあげる人格の一部でありアイデンティティーとなる。だからこそ故郷を否定出来ないし現在の自分があるのは故郷のおかげでもあって、それを忘れてはならないということを敢えて言いたかったのではなかろうか。


サントラはAlexandre Desplatによる小洒落た雰囲気満載の書き下ろしと、いくつかのアーティストの曲が混在しており、いつものウェス・アンダーソン作品のサントラといったクオリティの高さ。
ちょっと日本の昭和歌謡みたいなJarvis Cocker「Aline」も良かったけど、カフェで若者たちの踊るシーンでのChantal Goya「Tu M'as Trop Menti」の元気でポップな感じが印象深い。



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