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禅僧の「増一阿含経31-5」講話メモ書き3日目

今回は前回の続きから講話を始めた。

以下、今回の講話会で触れたところを、要点だけをまとめる

お袈裟(衣を)縫うについて

この話の中で、弟子(僧侶)が衣を縫うシーンがある。前回の話で失明したアヌルッダさんが衣を縫おうとしている。

衣とあるが、僧侶の衣とはお袈裟のことだ。お袈裟は、衣服としての実用性を兼ねた仏教僧侶の制服だ。(お袈裟については以下の記事にまとめてある)

正確には、お袈裟のほつれを縫うシーンだが、こうしてお袈裟を縫ったり、修繕したりする様子が経典には描かれているわけだ。

仏法と世法

アヌルッダ(阿那律)は失明したばかりで、針に糸が通せない。そこで「誰か糸を通してくれないか」と願う。きっと心の声が漏れていたのだろう。その声はお釈迦さんに聞こえる。そしてお釈迦さんが針に糸を通してくれようとする。

アヌルッダは師匠であるお釈迦さんに対して言った言葉ではないと恐縮する。アヌルッダはこう思っていたのだ。

謂諸世間欲求其福者與我貫針

「世の中で幸福になりたい人がいるのなら、私の為に針と糸を通してくれないだろうか」と。

でもアヌルッダが実際に漏らしていた言葉はこういう言葉だった。

諸世間得道阿羅漢者。當與我貫針。

「世の中で仏道を完成させたい人がいるのなら、私の為に針と糸をとおしてくれないだろうか」と。

アヌルッダは「仏道を完成させたい」ということと、「世間的に幸福になりたい」ということを分けて考えていた。仏法と世間を分けて考えていたのである。

しかし、お釈迦さんはこういう言葉をかけた。

世間求福之人無復過我。

「私ほど世間の幸福を求めている人はいない」と。

仏道と世間、仏教と一般、僧と凡夫、聖と俗、仏法と世法というように、皆なぜか知れないが分けて考えてしまうが、仏法と世法は分けられない。

もちろん、分けて考えることもできるからこういう言葉が生まれてくるのであるが、それでも本来、明確に分けるものなんてないのである。

そもそも、幸福になりたいと願うことも、仏道を完成させたいと願うことも、大雑把に言えば「欲求」であることには変わりない。

同じ欲なのだが、これは同じ欲と言っていいのだろうか?
違う欲だと私は思う。

違う欲なのだが、これは違う欲といっていいのだろうか?
欲であれば同じであろう。

どちらも福を求め、欲している。答えは同じだが、一体何が違うでしょうか? 

それを考え始めた所からアヌルッダの見え方が変わったように私は感じられるのである。


以上の話は動画やブログ等でも掲載していますので、こちらを読んで頂いたければ幸いです。

https://www.youtube.com/watch?v=F8eWQlEsUjk&t=8s

https://zenessay.kosonji.com/buddhist-talk-2

https://kosonji.com/buddhismepisode/bep2.html

https://kosonji.com/buddhismepisode/bep1.html


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