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経典宗典の講話はじめてみて

※本記事は過去の日誌をリライトしたものです。間違えて削除してしまったので再アップしました。

2022年の9月頃よりはじめた講話会。最古群の仏教経典(以下、経典)と曹洞宗典よばれる禅の書物(以下、宗典)についてお話しています。

なんだかんだで、はじめてもう一年が経ちました。

写経会での経典講話は順調でした。

講話会のスタートは写経会。阿含経(最古の仏教経典群)を読み始めました。阿含経は、私が本格的に仏教を学び始めた大学時代にであった、最古の経典群です。

「お経というと般若心経でしょ!」と思われる方も多いと思いますが、お経はたくさんあります。学生時代の私も、そんな認識でした。

お経の成立過程からもわかるように、お経は、お釈迦さんの弟子達がつくったもの。お釈迦さんとの思い出話をまとめたものだと言うことができます。

つまり、何が言いたいかと言えば、「古いお経は、物語みたいで読みやすいですよ!」という事です。

私自身、その驚きを忘れられず、10年以上、意訳、構成しながらまとめているほどです。

ですから、写経会での経典講話は、とても話やすく、私も最初からとても楽しんでお話ができました。

しかし、坐禅会の宗典講話は、なかなかうまくいきませんでした。

どこかしっくりこない宗典講話

写経会ではじめた古いお経を解説する経典講話。

ならば坐禅会では、禅の書物を読んでみようと、普段から月参りなどで読経することもある「正法眼蔵」を手にとりました。

檀信徒さんから質問された時も話が弾むことがあるので、あまり自信がありませんでしたが、講話会でも話す決心をします。

しかし、写経会の経典のように、順番に解説するようにお話しても、全然しっくりきません。

2回、3回と、回を重ねるごとに、どんどん伝えたいことから離れていくような気がしてなりませんでした。

過去の記事を読み返すと、当時の心境が少し綴られています。

禅の書物の解説は、なんだか漫才が終わった後にどこがおもしろいか、一生懸命、解説しているような気分になってしまいます。

一筋縄ではいかないことに、おもしろいなと思う反面、全然、皆さんに伝えられない現状に正直焦っていました。

そこで、話の仕方を変えてみることしました。

ようやく講話の形になってきた宗典講話

これまで、宗典の話をする際、経典と同じように、お経(原文)の言葉から自分の言葉(想い)へとつなげるようにして、皆さんに伝えるようにしていました。

それを宗典の場合は、逆をしました。自分の言葉(想い)を、宗典の言葉につなげるようにしたのです。

あえて誤解を恐れない言い方をすれば、宗典が主役ではなく、自己が主役になって話す。つまり自分をさらけ出さないと話せないのです。

宗典の書かれている文字順には、お話できないですが、おかげで、宗典の講話会でも、違和感なく、話すことができるようになってきました。

話すといっても、教えるわけではなく、むしろ話す中で、私が教わっている気がします。私が教わることができるのも、聞いてくださる皆さんがいるおかげ、その助けがあってこそです。

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ちしょう(智彰)@禅僧
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