【黒人初の世界チャンピオン】ジャック・ジョンソンの生涯
みなさんは、19世紀後半のアメリカで奴隷の子として生まれ、黒人初の世界ヘビー級チャンピオンまでのし上がったボクサー、ジャック・ジョンソンをご存知でしょうか?
ジョンソンは、リング内外で白人に対して挑発的な言動を取り続け、ボクシングの枠を超えて、アメリカの人種差別と闘う象徴的人物となりました。
今回は、歴史上最も影響力のあったボクサーの一人と言われるジャック・ジョンソンの生涯を解説します。
【生い立ち】
ジャック・ジョンソンは、1878年、9人兄弟の3番目の子として、テキサス州に生まれました。
ジョンソンの両親は元奴隷でした。
ジョンソンは友人の影響により10代でボクシングを始め、初めて試合を行ったのは15歳前後と言われています。
1899年、「黒いヘラクレス」の異名を持つクロンダイク・ヘインズと対戦し、KO負けを喫します。
これが記録に残る初めての敗北となりました。
1900年にクロンダイクとリマッチを行って引き分け、3度目の対戦ではKO勝ちによりリベンジを果たしました。
1901年、ジョンソンはジョー・コインスキーと対戦します。
コインスキーは、世界ヘビー級チャンピオンとなるジェームス・J・コーベットやジェームス・J・ジェフリーズと対戦して引き分けている実力者です。
ジョンソンは、経験豊富なコインスキーに3Rでノックアウトされました。
また、当時のテキサス州ではボクシングが禁止されており、「違法試合」の罪で2人は刑務所に収監されることとなりました。
面白いことに、ジョンソンは刑務所内でコインスキーからボクシングを習い、この時以来2人は友人となりました。
最終的に2人は起訴を免れ、3週間で釈放されています。
【“カラーライン”】
ジョンソンは、1902年までに50を超える白星を記録し、1903年2月、黒人ヘビー級チャンピオン“デンバー”エド・マーティンに挑戦します。
この試合に勝利したジョンソンは、自身初のタイトルとなる、黒人ヘビー級王座に輝きました。
この時代はまだ人種差別が激しく、当時の黒人ボクサーは、ほとんどの場合黒人用のタイトルにしか挑戦できませんでした。
黒人ヘビー級チャンピオンとなったジョンソンは、白人で第4代世界ヘビー級チャンピオンのジェームス・J・ジェフリーズとの対戦を望みます。
しかし、ジェフリーズは“カラーライン”を使ってジョンソンとの対戦を拒みました。
カラーラインとは、チャンピオンが黒人との対戦を拒否できるという、かつてボクシングに存在した人種差別制度です。
カラーラインを最初に用いたのは、初代世界ヘビー級チャンピオンのジョン・L・サリバンでした。
サリバンは、黒人ボクサー、ピーター・ジャクソンの実力を恐れ、対戦を拒否しました。
当時のアメリカ社会には人種差別が根強くあり、カラーラインもその一種です。
カラーラインの存在は、ただ白人が黒人を嫌悪していたというよりも、黒人の実力を恐れたチャンピオンが自身の権威が脅かされるのを恐れたという面もありました。
黒人は、世界タイトルマッチ以外では白人と対戦することができました。
当時、世界ヘビー級チャンピオンの称号は大変な栄誉で、「世界ヘビー級チャンピオン=地上最強の男」を意味していました。
【黒人初の世界チャンピオン】
1904年、ジョンソンとの対戦をカラーラインによって拒んだジェフリーズは無敗のまま引退しました。
ジェフリーズが引退した翌1905年3月、ジョンソンはタフネスが売りのマービン・ハートと対戦します。
この試合は、当時最も王座に近い白人と黒人の対決とされ、両者は20Rを戦い抜きました。
タフなハートの前に、ジョンソンは判定負けを喫しました。
ジョンソンを破ったハートは、ジェフリーズの引退によって空位となっていた世界ヘビー級王座をめぐり、ジャック・ルートと対戦します。
この試合でKO勝ちを収めたハートは、第5代世界ヘビー級チャンピオンとなりました。
しかし、ハートは初防衛戦でカナダの実力者トミー・バーンズに敗北し、王座陥落します。
ハートを下して第6代世界ヘビー級チャンピオンとなったバーンズは、イギリス、フランス、オーストラリアなど世界を渡り歩いて防衛戦を行い、通算11度の防衛に成功しました。
一方、その頃のジャック・ジョンソンは黒人ヘビー級王座を17度防衛し、破竹の勢いでした。
これにより、世間はジョンソンとバーンズの対戦を望むようになります。
世界ヘビー級チャンピオンのバーンズは、3万ドル(現在の価値で約85万ドル)という破格のギャラと引き替えに、歴代王者がカラーラインによって対戦を避けてきたジョンソンとの試合を受けることとなります。
ついに、最強の黒人ヘビー級王者ジャック・ジョンソンと、通算11度の防衛に成功した世界ヘビー級王者トミー・バーンズの対戦が実現しました。
この試合はオーストラリア・シドニーで行われ、会場には2万を超える観衆が詰めかけました。
この試合のレフェリーはバーンズのマネージャーが務めるという不公平な形式となりましたが、ジョンソンはバーンズをいたぶり続け、14RTKOで黒人初の世界チャンピオンとなりました。
チャンピオンとなったジョンソンは堂々と白人の娼婦を連れて公の場に姿を現し、アメリカ社会を挑発しました。
「白人に勝てば殺す」という殺害予告を受けてもリングに上がり、「白人以外お断り」と書かれたレストランやクラブにも堂々と入りました。
【グレート・ホワイト・ホープ】
ジョンソンがバーンズに勝利して世界チャンピオンとなると、白人のなかで黒人に対する憎悪が広がり、チャンピオンベルトを白人のもとに戻す「グレート・ホワイト・ホープ(白人の期待の星)」の存在が待ち望まれるようになります。
そして、「白人の名誉を回復する」ための戦いとして、ある男が立ち上がりました。
かつてカラーラインによってジョンソンとの対戦を拒み、無敗のまま引退した元世界ヘビー級チャンピオン、ジェームス・J・ジェフリーズです。
当時引退から6年ほど経っておりタバコ農家として過ごしていたジェフリーズですが、白人の期待もあり、ブックメーカーのオッズではジェフリーズが有利でした。
こうして、1910年7月、ネバダ州のダウンタウンに作られた特設リングで、「世紀の決戦」と言われるジャック・ジョンソン vs ジェームス・J・ジェフリーズが実現しました。
蓋を開けてみると両者の力の差は歴然でした。
ジョンソンは1Rでジェフリーズから2度もダウンを奪い、その後も優勢に試合を支配し、第14Rにジェフリーズは鼻を骨折しました。
このままだとKOされると悟ったジェフリーズ陣営は第15Rで棄権(TKO)しました。
この試合でジョンソンは6万5000ドル(現在の価値で約190万ドル)という大金を手にしました。
「グレート・ホワイト・ホープ」の夢が打ち砕かれた白人たちは怒り狂い、アメリカ各地で暴動が起きました。
一方で、アメリカで長く虐げられてきた黒人たちはジョンソンの勝利に歓喜しました。
白人たちは暴動を起こし、黒人たちはパレードを行ったと言われ、いかにこの試合が重要な決戦であったかがわかります。
ただ、皮肉なことに世界チャンピオンとなったジョンソンはカラーラインを使って黒人との対戦を避けました。
これは、ジョンソンが他の黒人の実力を恐れたというよりも、黒人同士のタイトルマッチは注目されず、お金にならなかったからと言われています。
カラーラインを引いたジョンソンに対して黒人コミュニティは失望し、1909年に黒人ヘビー級チャンピオンとなったジョー・ジャネットは「世界チャンピオンになって、ジャックは旧友を忘れてしまった。彼は同胞に対してカラーラインを引いた」と嘆きました。
【国外逃亡】
世界チャンピオンとなったジョンソンは1912年、「不道徳な目的のために白人女性を州境の外まで連れ出すこと」を禁じたマン法違反で逮捕され、有罪判決を受けました。
これは見せしめのための不当逮捕であったと言われています。
禁固と罰金を言い渡されたジョンソンは、保釈中にフランスへ逃亡しました。
1913年12月、ジョンソンは逃亡先のフランス・パリで無名の黒人ボクサー、バトリング・ジム・ジョンソンを相手に防衛戦を行いました。
この試合は、黒人同士が闘った初の世界タイトルマッチです。
ただ、ジョンソンが試合前に左腕を負傷していた影響もあって試合は凡戦となり、10R引き分けで終わりました。
1914年6月にはフランスでフランク・モランを相手に2度目の防衛戦を行い、20R判定で勝利しました。
一方この頃、チャンピオンのジョンソンが国外逃亡したことで、アメリカでは勝手に、白人同士による世界ヘビー級王座決定戦が行われ、ルーサー・マカーティがチャンピオンとなりました。
ちなみに、マカーティ及びこのタイトルは現在では正規のものとして認められていません。
ジョンソンは、1915年にキューバのハバナで試合を行いました。
相手は、元カウボーイで30歳近くになってからボクシングを始めたという異色の経歴を持つジェス・ウィラードです。
ウィラードは身長2mの巨漢でした。
会場には2万5000人の観客が集まりました。
ラウンドが進むごとにジョンソンは疲弊していき、26RでKOされました。
この試合は八百長説も囁かれ、物議を醸した一戦となっています。
【死と功績】
ウィラードに敗れて王座陥落したジョンソンは、1920年、7年ぶりにアメリカに戻り連邦刑務所に収監されました。
出所後のジョンソンは年齢による衰えも構わず試合を続け、晩年は負けが込むようになりました。
ジョンソンは60歳近くまで試合を続けたと言われています。
そして1946年6月、道路沿いの食堂に入った際、黒人であることを理由に接客を拒否されたジョンソンは怒りのまま店を出て車に乗り、ハンドル操作を誤って電柱に衝突しました。
病院に搬送されましたが、そのまま帰らぬ人となりました。68歳でした。
ジョンソンは生涯で3人の白人と結婚し、2人目の妻・キャメロンと結婚した際には「ジョンソンをリンチしろ」と白人から命を狙われました。
結婚中も白人の愛人を作るなど、破天荒な人生を送り、人種を巻き込んだ論争の的となりました。
黒人初の世界チャンピオンという功績は大きく、ジョンソンは国際ボクシング殿堂と世界ボクシング殿堂の両方で殿堂入りしています。
ボクシング界で最も権威ある雑誌『リングマガジン』を創刊したナット・フライシャーは「史上最強のボクサーはジャック・ジョンソンである」と述べています。
2018年、アメリカのドナルド・トランプ大統領は、ジョンソンが1913年にマン法に抵触し有罪となったことについて、死後恩赦を与えました。
不当な判決から100年以上経ち、死後72年目にしてジョンソンはようやく名誉を回復しました。
野球のニグロリーグ(黒人選手のリーグ)でプレーしていたジャッキー・ロビンソンがアフリカ系アメリカ人の代表としてメジャーリーガーとなったのが1947年で、人種差別の解消を求めた公民権運動が始まったのは1950年代です。
そのはるか前に、ジャック・ジョンソンはボクシングという肉体が直にぶつかる格闘競技において、白人を倒して世界チャンピオンとなりました。
ローマ五輪金メダリストでボクシング世界ヘビー級統一王者となるモハメド・アリは、史上最高のボクサーの1人としてジャック・ジョンソンを挙げ、「ジャック・ジョンソンは私にとって大きなインスピレーションだった」と述べています。
以上、まだアフリカ系アメリカ人が市民権を得られていない時代に活躍し、ジャンルを超えて一大センセーションを巻き起こしたボクサー、ジャック・ジョンソンの生涯を解説しました。
YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇