【地上最強の男】ジョン・L・サリバンの生涯
みなさんは、ボクシングで最初の世界ヘビー級王者ジョン・L・サリバンをご存知でしょうか?
サリバンは素手で殴り合う「ベアナックル・ボクシング」の最後のチャンピオンであり、現在のボクシングの基礎となるグローブ着用の「クインズベリー・ルール」で最初のチャンピオンとなりました。
サリバンはあまりの強さに大衆から「ビッグ・ジョン」と呼ばれるようになりました。
今回は、数々の荒くれ者をなぎ倒し、拳ひとつで世界の頂点に上り詰めた最初のヘビー級チャンピオン、ジョン・L・サリバンの生涯を解説します。
【生い立ち】
サリバンは1858年、アメリカ・マサチューセッツ州にアイルランド移民の子として生まれました。
母は教育熱心でしたがサリバンの気性は荒く、非合法の試合で賞金を稼ぐようになります。
当時のアメリカではボクシングが禁止されていました。
サリバンはボストンの酒場で力自慢の男を見つけてはボクシングをけしかけ、次々倒して腕を磨いていったと言われています。
【ベアナックルとクインズベリー】
記録に残るサリバンの最初の相手は、1879年3月、ボストンで行ったジャック・カレーとの一戦です。
この試合はグローブを着用したクインズベリー・ルールで行われ、サリバンがKOで勝利しました。
1880年、サリバンはベアナックル・ルールでチャンピオンと見做されていたジョー・ゴスと対戦し、勝利しています。
この時代は、ベアナックル・ルールとクインズベリー・ルールが混交していました。
ここでボクシングの歴史を簡単にご紹介します。
ボクシングはそもそも拳を武器に殴り合うため、広義には人類が二足歩行を始めた時に誕生したとも言われており、最も古い格闘技のひとつです。
今から約6000年前となる紀元前4000年頃のエジプトでは、象形文字によって当時の軍人たちがボクシングを行っていたことが記されています。
紀元前1100年頃、ホメロスの叙事詩『イリアス』にボクシングの試合が記述されており、この試合は英雄アキレスがプロモートしました。
そして、紀元前688年にギリシャで行われた第23回古代オリンピックでボクシング(「ピュージリズム」と呼ばれる)が種目として正式に採用されました。
当時は拳だけでなく腕や肘による攻撃も認められ、第38回古代オリンピックからは噛みつきを除くあらゆる攻撃が認められるようになり、ボクシングというよりも喧嘩ファイトの様相を呈していきました。
その後も残虐ショーとしての傾向を強めた結果、404年にローマ皇帝によってピュージリズムは禁止され、表舞台から消えることとなりました。
時が過ぎ、中世が終わりを迎えると、ピュージリズムはイギリスで息を吹き返し、イギリスの大衆の間で賞金を懸けた闘いが行われるようになりました。
ただし、この頃は投げ技も認められた「何でもあり」の闘いであり、「ベアナックル・ファイト」と呼ばれました。
このベアナックル・ファイトで無敵の強さを誇ったジェームズ・フィグが「初代イギリス王者」を名乗り、連戦連勝を飾って後に「近代ボクシングの父」と称されるようになります。
当時の選手たちは、相手に髪を掴まれないように頭髪を剃り上げていました。
その後、フィグの弟子ジャック・ブロートンが1743年にブロートン・コードを発表し、噛みつきの禁止や「ダウンした選手は30秒以内に所定の位置に立てないと負けとなる」といった現在のボクシングのルーツとなるルールを定めます。
1838年、蹴りや目つぶし、頭突きを禁じた「ロンドン・プライズリング・ルール」が制定され、現在のボクシングのルールに近づいていきます。
ちなみに、この頃のベアナックル・ルールとはこの「ロンドン・プライズリング・ルール」を指します。
1867年、ボクシング愛好家だった第9代クイーンズベリー侯爵ジョン・ダグラスによってクインズベリー・ルールが定められ、グローブの着用、投げ技の禁止、ダウンした後10カウントでKO負けといった現在のボクシングの原型と言えるルールが出来上がりました。
こうして徐々にラウンド数の制約や採点基準などが明文化されていき、現在のボクシングへと繋がっていきます。
話をサリバンに戻します。
ベアナックル・ルール(ロンドン・プライズリング・ルール)で強豪選手のゴスを破ったサリバンの名はいっきに広まり、1881年からアメリカ東部でチャンピオンを自称するボクサーたちと闘う旅に出かけ、連戦連勝します。
この頃はチャンピオンを認定する組織や団体がないため、多くの試合で勝利を納め、大衆から認められたものが「チャンピオン」と見做されていました。
【最後のチャンピオン、最初のチャンピオン】
その強さから「ボストン・ストロング・ボーイ」と呼ばれるようになったサリバンは、1883年から84年にアメリカ大陸横断ツアーに出かけ、挑戦してきた力自慢の男たち11人を全員ノックアウトします。
1887年後半からヨーロッパ・ツアーに出かけたサリバンは、イングランド、アイルランド、スコットランド、フランスなどで次々腕自慢を破っていき、1889年にはアメリカ・ミシシッピ州リッチバーグでジェーク・キルレインとベアナックル・ルールで対戦します。
キルレインは7日間で7人をKOした記録を持つ超強豪ファイターでした。
この試合はベアナックル・ルールで行われた最後のメジャーな闘いであり、この一戦を世界ヘビー級タイトルマッチと見る意見が主流となっています。
そして、この試合は写真で残っている唯一のベアナックル・ファイトとされています。
投げ技もある過酷なベアナックル・ルールで行われたこの一戦は75ラウンドに及ぶ死闘となり、最後はキルレインの棄権によりサリバンが勝利しました。
試合開始から2時間以上が経っていました。
こうしてサリバンは世界ヘビー級チャンピオンとなり、これ以降、ベアナックル・ルールでの試合は行われなくなります。
そのため、サリバンは「ベアナックル・ルール最後のチャンピオン」とされています。
1892年、サリバンはクインズベリー・ルールでジェームス・J・コーベットと対戦します。
この試合は、クインズベリー・ルールで行われた最初の世界タイトルマッチです。
コーベットは銀行員からボクサーに転身するという異色の経歴を持ち、サリバンと75ラウンドの死闘を繰り広げたキルレインを破るなど着実に実力を証明していました。
一方のサリバンは第一線からは退き、酒を飲み歩いて暮らしていました。
サリバンが生涯に稼いだファイトマネーは記録にあるだけで122万ドル以上(現在の貨幣価値で100億円以上)とされており、ハングリー精神が失われていても不思議ではありません。
着実に実績を残していったコーベットは「ビッグ・ジョン」と呼ばれ崇敬されるサリバンとの対戦を望み続けます。
コーベットとの対決を拒み続けた結果、「サリバンは逃げている」という声も出始め、ついにサリバンは重い腰を上げました。
こうして1892年9月、初代王者ジョン・L・サリバンにジェームス・J・コーベットが挑むかたちでクインズベリー・ルール初の世界ヘビー級タイトルマッチが実現しました。
戦前の予想では無敵の王者サリバンが有利とされていましたが、蓋を開けてみるとコーベットの圧勝でした。
コーベットは当時としては画期的なアウトボクシングのスタイル(長い距離を保って機会をうかがい、チャンスの時に攻撃するスタイル)を確立しており、サリバンのスタミナを徐々に削っていきます。
的確にパンチを当てていき、15ラウンドが過ぎたころにはサリバンは立っているのがやっとの状態となりました。
そして21ラウンド、コーベットに滅多打ちにされたサリバンは倒れこみ、壮絶なノックアウト負けを喫しました。
無敵の王者サリバンが完膚なきまでに叩きのめされるという衝撃的な瞬間でした。
試合後、サリバンは「これ以上戦うことはできない。もはや時が過ぎた」と語り、現役を引退しました。
こうして「ビッグ・ジョン」の時代は終わり、第2代世界ヘビー級王者コーベットの時代が幕を開けました。
偉大なチャンピオンとして歴史に名を刻んだサリバンは、1918年2月、59歳でこの世を去りました。
サリバンから始まった世界ヘビー級チャンピオンの称号は、時代を代表する男たちによって受け継がれ、現在のボクシング界に繋がっていきます。
以上、「ベアナックル・ボクシング」最後のチャンピオン、そして現在のボクシングに通じる「クインズベリー・ルール」最初のチャンピオン、ジョン・L・サリバンの生涯を解説しました。
YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇
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【参考文献】 『地上最強の男 世界ヘビー級チャンピオン列伝』百田尚樹,新潮社,2020年