【ブラック・プリンス】ピーター・ジャクソンの生涯
みなさんは、人種差別に苦しんだ悲劇の黒人ボクサー、ピーター・ジャクソンをご存知でしょうか?
ジャクソンは「芸術的」とも称されるボクシング技術で数々の難敵を撃破しますが、当時のボクシング界に存在した人種差別制度“カラーライン”により、ついに世界王座を獲得することができませんでした。
今回は、卓越したボクシング技術でヘビー級トップ戦線で活躍し、“カラーライン”最初の犠牲者となった黒人ボクサー、ピーター・ジャクソンの生涯を解説します。
【生い立ち】
ジャクソンは1861年、デンマーク領西インド諸島(現在のアメリカ領バージン諸島)に自由黒人として生まれました。
小学校を卒業後に船乗りとなり、1880年にオーストラリアに渡ります。
腕っぷしに定評のあったジャクソンは船員同士の乱闘騒ぎが起きるとその力を遺憾なく発揮し、大男を拳で黙らせていました。
これを見た船のオーナーは、「オーストラリアのボクシングの父」とも称される有名なボクシングトレーナー、ラリー・フォーリーのもとにジャクソンを連れて行きました。
この時、ジャクソンは18歳でした。
フォーリーのもとで訓練を受けたジャクソンはメキメキと頭角を現していきます。
【カラーライン】
身長187cm、体重90kgと恵まれた体格を持つジャクソンは1882年、21歳でデビューし、連戦連勝を重ねます。
1886年にオーストラリアヘビー級王座を獲得し、オーストラリアで敵なしの状態となったジャクソンはより強い相手を求めてアメリカへ渡ります。
1888年にサンフランシスコに到着し、ここでも強豪を次々破っていきます。
ジャクソンはその破格の強さと礼儀正しい物腰により、いつからか「ブラック・プリンス」と呼ばれるようになりました。
快進撃を続けるジャクソンは、当時世界ヘビー級王者として君臨していたジョン・L・サリバンに幾度となく対戦を呼びかけます。
しかし、サリバンは、“カラーライン”を使ってジャクソンとの対戦を拒み続けました。
カラーラインとは、チャンピオンが黒人との対戦を拒否できるという、かつてボクシング界に存在した人種差別制度です。
ちなみに、このピーター・ジャクソンに対して用いられたカラーラインが最初の使用例だとされています。
ただ、ジャクソンとの対戦を拒否したのはサリバン自身ではなくマネージャーのウィリアム・マルドゥーンという説もあり、真相は定かではありません。
マルドゥーンが後の『リングマガジン』創刊者ナット・フライシャーに対して「黒人(ニグロ)に敗北するという汚名をサリバンに着せないため(対戦を回避した)」と述べたという話も出ており、人種差別意識に加え、ジャクソンの実力を恐れていたことが窺えます。
当時、ボクシングの世界ヘビー級チャンピオンの称号は大変な栄誉で、「世界ヘビー級チャンピオン=地上最強の男」を意味していました。
この「世界一」の象徴である世界ヘビー級王座に黒人を就かせてはならないという意識が、当時のボクシング界やアメリカ社会には根強くありました。
【ジェントルマン・ジム】
世界ヘビー級王者ジョン・L・サリバンに無視され続けたジャクソンは、新天地を求め、イギリスへ渡りました。
イギリスでも抜群の強さを誇ったジャクソンは、1889年、イギリス連邦ヘビー級王座を獲得します。
そして、このタイトルを保持したまま再びアメリカにやってきたジャクソンは、1891年5月、ジェームス・J・コーベットと対戦することとなります。
コーベットは銀行員からボクサーに転身するという異色の経歴を持ち、その紳士的な人柄から「ジェントルマン・ジム」と呼ばれていました。
両者の実力は拮抗し、61ラウンドになっても決着がつかず、試合はノーコンテスト(引き分けとも)となりました。
実力者ジャクソンと引き分けたことでコーベットの名は一躍広まり、翌1892年9月、コーベットは世界ヘビー級王者ジョン・L・サリバンに挑戦します。
戦前の予想では無敵の王者サリバンが有利とされていましたが、蓋を開けてみると挑戦者コーベットの圧勝でした。
コーベットは当時としては画期的なアウトボクシングのスタイル(長い距離を保って機会をうかがい、チャンスの時に攻撃するスタイル)を確立しており、サリバンのスタミナを徐々に削っていきます。
的確にパンチを当てていき、15ラウンドが過ぎたころにはサリバンは立っているのがやっとの状態となりました。
迎えた21ラウンド、コーベットに滅多打ちにされたサリバンは倒れこみ、壮絶なノックアウト負けを喫しました。
無敵の王者サリバンが完膚なきまでに叩きのめされるという衝撃的な瞬間でした。
試合後、サリバンは「これ以上戦うことはできない。もはや時が過ぎた」と語り、現役を引退しました。
こうして「ビッグ・ジョン」の時代は終わり、第2代世界ヘビー級王者ジェームス・J・コーベットの時代が幕を開けました。
【悲惨な最期】
コーベットがサリバンを倒す少し前の1892年5月、ジャクソンはかつての同門フランク・スラヴィンを相手にイギリス連邦ヘビー級王座の2度目の防衛戦を行いました。
ジャクソンとスラヴィンは共にラリー・フォーリーのもとで指導を受けた長年のライバルで、ジョシーという女性を巡って三角関係になったこともありました。
この試合はジャクソンがスラヴィンを滅多打ちにした凄絶な試合とされており、第10ラウンドにノックアウトでジャクソンが勝利しました。
意識が朦朧とするスラヴィンの姿を見てジャクソンはレフェリーに試合を止めるよう促しますが、レフェリーが試合をストップしないため、ジャクソンはやむなく止めを刺したと言われています。
そして、かつて自分と引き分けたコーベットがチャンピオンになったと知ったジャクソンは、新王者コーベットに対戦を申し込みます。
しかし、コーベットは前王者サリバンと同じく、カラーラインを用いてジャクソンとの対戦を拒みました。
またしても人種の壁によって夢を断たれ、自尊心を深く傷つけられたジャクソンは世界王座に挑戦できないまま最盛期を過ぎていき、1898年には後に世界ヘビー級王者となる実力者ジェームス・J・ジェフリーズと対戦し、わずか3ラウンドで壮絶なKO負けを喫しました。
この時、ジャクソンは37歳でした。
礼儀正しい物腰から「ブラック・プリンス」とも呼ばれたジャクソンですが、その後は酒やタバコを口にするようになり、荒れた生活を送り始めます。
放埓な生活がたたり、ボクサーを引退すると無一文となり、不健康な生活によって結核や坐骨神経痛を患うようになりました。
第二の故郷オーストラリアで最期を迎えたいと願ったジャクソンですが、残念なことにその旅費すらありませんでした。
ただ、それを知ったオーストラリアのファンたちが資金を集め、1900年に念願の帰郷を果たします。
そして、翌1901年、ジャクソンは40歳の若さでこの世を去りました。
ピーター・ジャクソンの死から7年後の1908年、「ガルベストンの巨人」の異名を持つジャック・ジョンソンがトミー・バーンズを破り、黒人初の世界ヘビー級王者となりました。
世界ヘビー級王座を獲得したジョンソンは、チャンピオンになってから間もなく、ピーター・ジャクソンの眠るお墓に行き、黒人が「世界一」になったことを報告しました。
以上、卓越した技術でボクシング界を席巻するも、人種差別制度“カラーライン”によって世界王座に挑戦できなかった悲劇の最強ボクサー、ピーター・ジャクソンの生涯を解説しました。
YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇
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【参考文献】 『地上最強の男 世界ヘビー級チャンピオン列伝』百田尚樹,新潮社,2020年