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心理は“他人と共有するもの”

「ここが近代と前近代の分かれ目ではないかと思うのですが、前近代というのは、人間が心理を自分の外に置いていた時代ではないかと思います。
心理は、人間の胸の中にあるのではなく、たとえば、散る花の中にあります。夕暮れの風の中に、朝露に濡れる秋草の上に、夜空を照らし出す月光や篝火の中にある─そういうものだったと思います。

だからこそ、そういう情景を共有して、多くの登場人物達は和歌を詠むし、琴を弾くし笛を奏でる。『掛け言葉』という、情景と心理と二重の意味を持ったことばによって31文字の複雑な和歌が詠める。

心理というものは、この時代、一人で持っているものではなくて、他人と共有するものだったのではないか─少なくとも、そういう前提でこの源氏物語という小説は出来上がっていると、私はそんな風に思いました。

愛の喜びというのは、その美しい情景を共有出来ることだし、愛の錯誤というのは、その情景の中で違う二つの旋律が縺れ合って離れるようなこと。別に男と女の愛情だけではなく、人間関係そのものが、こういう前提の上に乗っかっていたのではないかと思うのです。その前提があればこそ、どんな複雑で容赦ない残酷物語でも美しい絵になる─これが王朝美学に代表される日本の前近代の美意識の基礎ではないかと思うのです。

人間は、切れば血を流すような生臭い生き物ではあるけれども、しかしそれは同時に、月の光や花の影と容易に一つになってしまうような、抽象的で美しい生き物でもある。この両方から成り立っていることを忘れてはならないと思います。

(中略)

『人間の心理は自分一人のものだから、それを正確に把握しようとするのを妨げる花鳥風月はいらない』─おそらくそう言って、近代文学は『美文』という“反動”を捨ててしまったんですね。その結果、日本の文学はとても寂しいものになった。人間というものは、そうそう一人で『自分』なるものを正確に把握出来るものではない。第一、すべてを自分一人で把握していかなければならないというのは、とても寂しくてつらいことです。生きて行く為には、他人と何かが共有出来ているという一体感は必要だし、自分を許し受け入れてくれる『自然』という大いなる背景、情景という何かの理解者・恋人を持った方がいい。『自然は自分と同じように醜く、そして美しい』と思える心を持っていることが、生きて行くことの基本だと思います。

人間が夕焼け空を見て美しいと思うのは、そこに『夕焼け空を美しいと思いたい』という人間の心理が、あまさず描き出されているからですね。人間の心理というものは、やはりそういうもので、だからこそ人間は自然の“一部”なんだと思います。やっぱり、人間は自分が『美しい』と思うものはそうそう簡単には壊せないし殺せない。エコロジーというものの根本は、こういうものじゃないといけないと思うんですけど、
違いましょうか?
エコロジーだの自然破壊だのが問題になる現代では、残念ながら、その『自然は人間にとっての心理そのものでもある』ということが忘れられていますね。」

橋本治『源氏供養』(上)


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