憎しみで人が殺せたら!!
(第三回。)
昨日ちょっと触れたので、ジェンダー、というと大げさだけども、性自認の話。(すみませんが、今日は一人称は「僕」で書きます。)
僕は、性暴力のせいで中2の時点で自分のジェンダーに疑問を持つようになった。僕が好きなのは男性なのか女性なのか、無いアタマを絞ってすごく悩んだ。
このブログでも女性名を使って書いてるし。(ちなみに「水原千里」という名前は、僕が書きかけて、でも書き上げられなかった小説の登場人物から取っています。だからすごく身近な感じします。)
でも35年前はLGBTなんていう言葉もなかったし、ウェブもなかった。だから僕はお酒いっぱい飲んで、ベッドの中に入って痛いくらい目を瞑って「気持ち悪い、気持ち悪い」ってずっと思ってた。
でも、僕が吐き出したかったのはアルコールでも言葉でもなくて、汚れた自分自身だったような気が、いまはする。
自分なんて消えてなくなればいい、って、すごく思ってた。だけど表現する方法がなかった。相談する人なんかいなかった。他人が信じられなくなった。外を見れば人はいっぱいいるのに、僕はほんとうにひとりぼっちだった。
だからマンガ、いっぱい読んだなあ。
萩尾望都さんと竹宮惠子さんは特にいっぱい読んだ。何か、共感するものをすごく感じていっぱい読んだ。読み終わると最初に戻ってもう一回読んだ。そこだけ時間が30年くらい先を行ってたんじゃないかって、今だからちょっと思える。
でもそこはやっぱりマンガの世界で、現実を生きるための力にはなってくれたけど、現実にはなってくれなかった。
時々、自分の部屋でセリフを音読しながら読んだりもした。今の子たちもそういうことするのかな~。ツイキャスとかでシチュエーション決めてセリフ言ったりする配信はあるけど、それもまだそこまでメジャーなことじゃないよね。でも、今の子たちはウェブがあっていいなあ!!、調べればなんだってわかるじゃんね。でも、性被害のブログは、すごく少ない。被害にあっている子は絶対に一定数いるのに、やっぱりウェブでおおっぴらには言いたくないのかもしれない。性表現はおおっぴらなのに、それはでも、フィクションだから表現できるのかな。フィクションだったらそれこそもうなんでもアリだもんね。
でも、だからこそ僕にはわかるんだけど、大事なのは性表現をタブーにしないことじゃなくて、性的な話を現実の会話レベルに持ってきても変な目で見られないようになることだと思う。今はみんな(若い子たちは特に)、LGBTに偏見が少ない(ないとは言わない)のは、すごくいいことだと思う。
今の小学校や中学校の性教育がどうなってるのか知らないけど、でも、ちゃんとやってんのかな?、小学校中学年くらいになったら男女同席させて、セックスの仕組みとか意味とか心地良さとか危険さとか、話してんのかな?、小学校高学年以上になったら、夏休み前にはコンドーム男女問わず配ってるのかな~?(多分してないよね…。そのくらいしてくれてもいいと個人的には思うけど…。)
そしてあと、ちょっとクギを刺して言っときたいのは「男性を好きな男性」と「女性を好きな男性」をちゃんと同一平面上で語ってほしいってことなんだよね。男性を好きな男性は、男性なら誰でも好きになって、欲情するっていうわけじゃない。当たり前だよね?、女性を好きな男性だって、女性なら誰でも好きっていうわけじゃないもんね。男性が、道ですれ違う女性全員に欲情してたら大変だもんね。それはただの変態だよね。
男性を好きな男性にだって、好みの男性もいれば、好みじゃない男性もいる。ただの友達として好きな相手もいれば、恋愛の対象として好きな相手もいれば、どうでもいいその他大勢の男性もいる。女性を好きな男性だって、だいたいみんなそうじゃんね?、好きなタイプもいれば嫌いなタイプもいる。以下同文だから繰り返さないけど、同性でも異性でも恋愛の対象になり得る、っていうのが、落としどころとしてはいちばん素直な気持ちじゃないかなあ。実際に恋するかどうかは別にしてさ。
そんな風に人と人が恋に落ちる時、LGBTっていう言葉は全く無力だと思うんだ。性自認に問題を感じる人を指してはいるけど、いっしょくたにしちゃダメだよね。
あと、話と直接関係はありませんが、今日のブログのタイトルは竹宮惠子さんのとあるマンガのセリフから引用させていただきました。それな、ほんとそれな…。