「生きておいで」に救われた
東京出張の機会があったので、せっかくだから東京でしか見られないイベントがないか探していたら、現代美術家・内藤礼氏の展覧会を見つけた。
生まれておいで
生きておいで
そう語りかける文字の向こうに、ざらりと赤い土肌が見える。これは、会場である東京国立博物館が所蔵する縄文時代の出土品らしい。現代美術館やギャラリーではなく、博物館で展覧会をするというのもユニークだと思った。
と、わかったような顔をして上野までやって来たものの、実を言うと私は現代アートが「怖い」。
超有名どころの杉本博司氏や草間彌生氏、塩田千春氏などの現代美術家なら知ってはいるが、ミーハー心で鑑賞こそすれ、深く理解しているわけではない。
現代アートは難解で、挑戦的だ。
子どもでも作れそうな作品をぽーんと提示して哲学的な問いを投げかけたかと思えば、狂気の沙汰としか思えない質量の表現で、観る者を圧倒することもある。
あなたは感じられるか、あなたにわかるか。
試されているような気がして「怖い」。
内藤礼氏は、以前金沢を旅行したとき、たまたま金沢21世紀美術館で開催されていた展覧会を鑑賞したので知っていた。代表作である巨大な空間アート「母型」が展示されている豊島美術館にも行ったことはあるが、随分前のことで記憶に薄い。そして、金沢でも豊島でも、鑑賞した感想を正直に言えば「よくわからん…」であった。
それなのに、この展覧会には手招きされるような引力があった。
「生まれておいで、生きておいで」と囁く声に、呼ばれているような気がしたのだ。
⌘
展覧会は、土器や埴輪(はにわ)などの考古遺物から戦国時代の刀や掛け軸など、「トーハク」のさまざまな所蔵品の展示室と、内藤氏のインスタレーション空間を行き来するような構成だった。原始的な暮らしの片鱗を観たあとで、高度に抽象化された現代アートに対峙する。それだけで時空がバグる体験だけれど、タイムワープのようで高揚感もあった。
金沢21世紀美術館でも観た、小さな小さな人の彫刻や、一円玉ほどの大きさの鏡、ふわふわした色鮮やかな毛玉などの作品が、ひっそりと在る様子を見つめる。メインの展示は、荘厳な洋建築の広間に天井から小さなガラス玉がツーーといくつも降りているインスタレーションで、古代の出土品と内藤氏の作品が組み合わされたショーケースが点々と配置されていた。座って鑑賞できるスペースがあったので、体育座りして天から降り注ぐ光の玉を眺めた。
行き交う人の話し声に耳をそばだてる。
なんだろうこれ
私でも作れそう
ふうむ
私が一人心の中でつぶやいていたことと同じような言葉が聞こえてきて、少し笑ってしまう。
みーんなわかって観ているわけじゃないんだなぁ。
わからないなりに、小さくてささやかな表現に目を凝らし、耳を澄ませる。初めて聞いたときから心に響いた「生まれておいで、生きておいで」という言葉が、自分なりの解釈の手がかりとなって、わからないけど、怖くない。
「私でも描けそう」「私でもできそう」。そう言われることが容易に想像できる作品を創るのは、どれだけ勇気がいるだろう。
文章だって、「私にも書けそう」と感じるようなシンプルでなめらかな文章ほど、書いてみるととても再現できない。誰もが理解できる平易な言葉に辿り着く前に、いくつもの「書かれなかった」言葉がある。
あふれそうに水を湛えたガラス瓶を一つ置いて、「アート」と呼ぶ。
誰にも気づかれないかもしれない。
誰一人理解してもらえないかもしれない。
そこに至るまでに捨ててきた、数々の色や形や言葉には誰も、見向きもしない。
現代アートは難解で、鑑賞者を試すかのようで怖いと先に書いた。
でも本当は、一番怖くて孤独でふるえているのはきっと、アーティストのほうだ。
内藤氏の創作のテーマは「地上に存在することは、それ自体、祝福であるのか」だそうだ。外の世界をまだ見ぬ命に「こちら側」から語りかける、「生まれておいで」はなじみのある祝福の言葉だ。
でも「生きておいで」には、初めて耳にする不思議なぬくもりがある。
あちら側なのかこちら側なのか、遠く人智の及ばない視座からか、どこから聞こえてくるのかわからない。
大きくて、優しくて、それでいて突き放される。
でも、決してゆらぐことのない意志を持って、「一緒には行けないよ」と伝えてくる。
その覚悟と、愛の大きさ。
わからないこと、ともに歩めないことを、そのまんま胸に抱いて生きていく。
心の奥深くにテレパシーのように響いてきた「生きておいで」という声に救われて、私の怖さは希望になった。
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