わたしが台湾に来た理由
去年の5月1日。
日本中が、今日から新しい年号だという話題で持ちきりだった日。
わたしは荷物をたくさん抱えて、台湾の空港に降り立った。
4時間ほどのフライト中、不安をかき消すべく、日本語の文法についての本を読み込み、
入国カードには初めて観光以外のところにチェックを入れて、職業のところにこう書いた。
そう。
あの日わたしは、台湾で日本語教師として働くために、北海道から引っ越してきたのだ。
どうしてわたしがそういう道を選ぶことになったのか。
きっかけは2013年に遡る。
最後の家族旅行
2013年のゴールデンウィーク。
その頃、家族で外食をするときに、姉が彼氏を連れてくるようになっていた。
ただのファミレスとかだけど、週末にみんなで一緒にランチを食べる。
ランチが終わると、姉と彼氏はそのままデートに出かけていく。
姉も含め、家族全員、これって、彼氏さんはどういうつもりなのかしら…と、結婚の2文字が脳裏にちらつき始めた。
そんな時、父がわたしに、珍しいことを言った。
「今度のゴールデンウィークは、家族で海外旅行に行こう。どこか調べておいて。直行便で行けて、近いところがいい。」
枕が変わると眠れない父が、旅行に行こうと言い出すことなんて滅多になかった。
娘が結婚するかもしれない。これが家族みんなで旅行する最後のチャンスだろう。
そう思ってのことだったらしい。
わたしはとにかく海外旅行が嬉しくて、父の気が変わらないうちに申し込んでしまおうと、
すぐに母と姉にゴールデンウィークに旅行に行こうと父が言ってる!と伝えて、1人で旅行会社へ相談に行った。
新千歳空港から直行便で行ける、近いところを条件に、旅行会社のお姉さんが提案してくれたのが、台湾だった。
家族の誰もまだ行ったことがなかったし、特に反対する理由もなく、行き先は台湾に決定した。
図書館へ行ってガイドブックをたくさん借りてきて、家族みんなで回し読みした。
誰も台湾に特別な思い入れはなく、知識はゼロに等しかった。
お祭り好きで食いしん坊なわたしは、ガイドブックの、屋台グルメという文字に心躍らせた。
行くまでに、『海角七号』という台湾映画を観てみたりもした。
台湾の綺麗な海が出てきて、まるで沖縄みたいだった。
こんな国へ行くのかぁ、と期待と想像を膨らませた。
実はそこは台北から遠く離れた南部のビーチだったので、台湾に住んで1年が経った今もまだそんな景色は見れていないけれど。
久しぶりの家族全員そろっての海外旅行。
エバー航空のハローキティジェットが可愛くて、テンションがますます上がる。
機体にキティちゃんが描かれているのはもちろん、キティちゃんのカバーのかかった座席シートにクッション、機内食も箸袋からデザートの形まで、とにかくキティちゃんだらけだった。
全部ツアー任せの旅だったのだが、到着したのは夜だったので、1日目は空港からホテルまで送ってもらって、すぐにガイドさんと別れた。
父は部屋で休むと言うので、母と姉と3人で、MRT(台湾の地下鉄)の駅へ向かう。
実は当時、台湾に、えっちゃんという日本人の友達が住んでいて、台湾旅行が決まってから彼女のことを思い出して連絡を取り、西門町という駅で会う約束をしていたのだ。
このえっちゃんこそ、その後わたしの人生に多大な影響を与えるキーパーソンなのだが、当時はまだ友だちといっても2人だけで会ったことはないくらいの仲だった。
母と姉と3人でドキドキしながら、海外の地下鉄に挑戦する。
なんと切符は青いコインだった。
環境に優しい。でも小さくて失くしそうだから、気をつけなきゃね、と言い合いながら、地下鉄に乗り込む。
ええと、ここで降りて、えっちゃんは○番出口と言っていたから…と地図を見ながら確認していたら、
近くにいたおじいさんが、急に日本語で「どこに行きますか?わかりますか?」と声をかけてきた。
「あっ、はい、わかります」と答えたが、おじいさんはそれを無視して、ニコニコしながら「西門町に行くなら、ここで乗り換えて〜」などと説明してくれる。
西門町というのは、台湾の渋谷などと言われるところで、着いた時にはすでに夜8時頃だったと思うが、若い人がたくさんいて賑わっていた。
えっちゃんと合流して、4人でブラブラ歩いていると、大学生くらいのカップルが、自分の顔より大きな唐揚げを食べている。
「あれ、なんだろう?」
と無遠慮に、まじまじと眺めてしまった。
見知らぬ外国人たちにじろじろ見られたカップルがこちらに気づく。
すると、顔をしかめるでもなく、男性のほうが「あっちで売ってるよ」と身振りで教えてくれる。
せっかく教えてもらったので、その唐揚げ(雞排というチキン唐揚げ)を買って食べてみる。
正直、肉が薄すぎてあんまり好みじゃなかったが、そんなことより、親切にされた感動のほうが強く残った。
次の日以降は、ツアーで故宮博物館やら、その他色んな歴史的建造物やお寺をまわり、大きなマンゴーかき氷を食べ、101に登り、鼎泰豊(ディンタイフォン)で小籠包を食べた。
それから、九份では『千と千尋の神隠し』に出てきそうな建物の前で写真を撮り、台湾茶を飲み、賑やかな士林夜市へ行ってタピオカミルクティーを片手に、安い雑貨を買い漁った。
ツアーのガイドさんが迎えにくるまでの、朝の短い時間に、ホテルの周りを散策して、コンビニや市場に行ってみたのも楽しかった。
安い宿にしたわりには綺麗な宿だったこと、台湾の食べ物がどれも口にあったことで、家族みんなとても満足していた。
わたしは、朝でも夜でも賑やかな台湾の街を見て、日本にはないエネルギーや勢いを感じる素敵な国だなと思った。
中国語って楽しい!
ガイドさんが車中で、少しだけ簡単な中国語をレクチャーしてくれ、わたしはガイドさんがドアを開けてくれたり何かしてくれる度に、「謝謝」と繰り返した。
市街を車で走っていたある時、ガイドさんが大きな建物を指して、
「あれは大学です。台湾に留学して、中国語を学ぶ日本人もたくさんいますよ」
と言った。
留学して、この国に住めたら楽しいだろうなぁ。
そう思ったけれど、当時わたしは25歳の自分を、“もう若くない“と思い込んでいて、
そう考えて、すぐに思いを打ち消した。
日本に帰国してからも、台湾旅行の余韻は消えず、中国語に興味が湧いて、SNSで見ず知らずの台湾人の投稿を見て、意味を調べたりしていた。
でも、中国語のレッスンは安くても1回2千円くらいする。
語学教室に通うほどまでは、まだ熱が上がっていなかった。
その後、同じ年のお盆休みに1人でタイ旅行へ行き、やっぱり語学を勉強してみたい、中国語かタイ語を学んでみたい、と本気で考え始めた。
そんな時に、タイミングよく、えっちゃんが台湾から帰国して、SNSにこんな投稿をした。
今思うと、ほぼボランティアに近い、破格の値段。
500円ならと、わたしはすぐに、やってみたい!とコメント欄に書き込んだ。
えっちゃんと本屋へ行って、初心者向けのテキストを選んでもらい、毎週カフェなどでレッスンが始まった。
わたしは中国語にのめり込んでいき、毎日、日付などの簡単な内容を中国語で言ったのを録音してえっちゃんに送り、チェックしてもらった。
しかし、しばらくして、えっちゃんは元々、台湾で日本語教師をしていたのだが、今度はメキシコの学校で働くことにした、と、また日本を離れることになった。
えっちゃんは、旅立つ前に、代わりの中国語の先生として、台湾人の友達をわたしに紹介してくれた。
初めての台湾人の友達
わたしの2代目の先生となったその子は、わたしと同い年だった。
日本に来て、日本人の高校生相手に中国語を教えているというプロの先生だった。
レッスンだけではなく、一緒にお酒を飲みに行ったり、わたしの運転で北海道観光に出かけたりするようになっていった。
もはや国際交流という感じではなく、彼女は大事な友達の1人になった。
ある日、彼女は、ネットで台日交流会を見つけたので、参加してみようと思っている、と言い出した。
台湾人と、台湾に興味のある日本人が集まる会らしい。
わたしはよくわからないまま、彼女に付いて行くことにした。
行ってみると、その日が発足の日で、記念すべき第1回目の台日交流会だった。
台湾が好きで、中国語を勉強しているという、アパレル勤めの綺麗な日本人のお姉さんや、台湾の東大と言われる大学を卒業して日本に来たという頭のいい台湾人などなど、色んな人とそこで出会った。
お互いの言葉を教えあったり、日本人の台湾旅行の思い出話や、台湾人の日本に来た理由を聞いたりした。
その台日交流会は毎月開かれ、わたしはよく参加しているうちに、台湾人の友達や、中国語を勉強する日本人の仲間が増え、他の言語交換会や中国語の勉強会にも参加するようになった。
熱心に中国語を勉強していたある友達は、いつの間にかライバルのような存在となり、一緒にHSKという中国語の試験を受けることになった。
台湾に留学経験のある友達が、私たちのために1日付きっきりで中国語の文法を教えてくれた。
このHSKの試験勉強のおかげで、わたしの中国語はかなりレベルアップした。
中国語がどんどん面白くなって、わたしは交流会の仲間が通う、台湾人の先生が開いている中国語教室にも通い始めた。
今まで、何を言っても発音が悪くて、台湾人の友達に聞き取ってもらえなかったのが、だんだん通じるようになっていった。
まだあまり日本語のできない、日本に来たばかりの台湾人の子とも話せるようになった。
そして、大して日本語ができない状態で日本に来た人も何とか生活できていることを知り、日本に住んでいるうちにどんどん日本語が上達していく彼らの姿を見ているうちに、
と思うようになった。
日本語教師になる
でも、25歳ですでに留学するには遅いと思ったわたしは、30歳になっていた。
あの時留学しておけば、と思ってももう遅い。
この歳で、留学して、貯金を減らして帰ってきて、その後どうするのか。
中国語を使う仕事をする?
いや、日本語のできる中国語ネイティブにはきっと敵わない。
それなら、留学じゃなくて、台湾で働けないだろうか。
そんな時、えっちゃんに何度も言われた言葉を思い出した。
えっちゃんが楽しそうに仕事の話をするのを何度も聞いたし、元学生から今も先生と呼ばれて慕われている姿も見ていた。
一方で、休みの日にも授業の準備があるからと、遊びに誘って断られたこともあり、忙しそうだなとも思っていた。
まずは養成講座に通って、資格を取ってみよう。
もし、日本語教師にならなくたって、言語交換会で日本語を教えるときに役立つ知識が身につくはず。無駄にはならない。
そう自分の背中を押して、1年間、仕事が終わったあと、養成講座の夜間コースに通うことに決めた。
養成講座に通い始めてしばらくして、当時の職場が1年後に閉業することが決まり、同時に1年後にわたしが失業することも決まってしまった。
正直、実習の準備などをしてみて、日本語教師は大変な職業だなと思い、仕事を辞めてまで転職するつもりはなくなっていた。
しかし、仕事がなくなり、台湾に行くなら今しかないと思った。
日本で再就職してしまったら、年齢的にも、もう仕事を辞めてまで台湾に行くことはないだろう。
台湾で1年間働いてみて、日本語教師を続けるか否か決めればいい。
向いていないと思ったら、日本に戻ってきて再就職先を探そう。
それからは、養成講座の仲間や先生にも、資格を取ったら、台湾へ行って日本語教師になります、と宣言して、一生懸命勉強した。
宣言しているうちに、どんどん決意は固まっていき、もう何が何でも行かなくてはという思いで、就職活動をした。
インターネット上の日本語教師の求人サイトや養成講座の教室の求人の貼り紙を見て、気になったところに、メールに履歴書を添付して送った。
オンライン面接を受けて、しばらくして無事に採用の連絡がきた。
2月末で当時の仕事が終わり、3月と4月上旬は友達の紹介で短期のアルバイトをした。
4月中旬から、2週間、えっちゃんに会いにメキシコに行くと決めていたからだ。
台湾の学校からは今の先生が産休に入ってしまうので、4月から来れないか、と急かされていたが、短期のアルバイトが4月末まで入っていて無理です、早くても5月からしか行けません、と言っていた。
正直に、メキシコ旅行に行くと言ったほうが良かったのかもしれない。
どうしても5月1日に絶対に台湾へ来るように言われ、なんと、メキシコから帰ってくる次の日に台湾に引っ越すというハードスケジュールになってしまった。
その上、メキシコにいる間に、教案を作って送るよう連絡がきて、メキシコのカフェやらホテルやらえっちゃんの家やら移動中の高速バスの中やらで、教案を書くハメになった。
そんな変わったメキシコ旅行を終え、えっちゃんからこれから同じ日本語教師として頑張ろうねと励まされて、日本に帰った次の日、わたしは台湾に旅立った。
荷物の中には、わたしが教案を書いている間にえっちゃんが作ってくれていた、日本語の教え方のアドバイスのノートが、お守りみたいに入っている。
令和元年5月1日。
31歳のわたしの、人生を変える台湾生活の始まりだった。