待ち続けても救いの来ない世界で
数々の予言が外れても、エホバの証人がずっと待ち続けている神の救い、ハルマゲドン。
信者である私の母も例にもれず何があろうとその救いを信じて疑わない。
その様子をみるたび、私は学生時代に触れた2つの戯曲、『ゴトーを待ちながら』と『朝日のような夕日をつれて』を想起する。
1950年代にパリで初上演されたサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』は、不条理演劇の代表作として演劇人にはよく知られている。
あらすじを簡単にいえば、2人の男が、来るか来ないか、いるかいないかさえわからないゴドーを待ち続ける中で、暇を潰してみたり、待つことに疲れ自殺しようとして失敗したり、それでもゴドーは来ると信じ、延々と待ち続けるだけの芝居である。
2人が待ち続けるゴドー(Godot)は神(God)を意味するという解釈が主流だが、ゴドーが実際何者かも劇中では明らかにされていない。
詳しいあらすじはこちら↓
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ゴドーを待ちながら
日本でも多くの劇団がこの戯曲を上演、80年代の小劇場ブームになると、この戯曲をベースや伏線にした戯曲が多く誕生した。
その代表的な戯曲が、鴻上尚史の「朝日のような夕日をつれて」である。
何とも説明しづらいあらすじの戯曲だが、劇中に「ゴトーはやってこないんだね」という明確なメッセージがある。
私は90年代後半に学生劇団に所属していたが、当時の学生劇団はこの鴻上尚史の戯曲を上演することが多く、私の所属していた劇団もそうだった。
この『待ち続けても救いはこない』世界観は、エホバの証人の組織から離脱したばかりの私にとっては、刺さるものがあった。
この芝居の始まりと終わりには群唱がある。
当時の劇団仲間はこの芝居が好きな人が多く、違う公演を打っても、その打ち上げの後のスタジオは、酔った先輩や同期が次々と舞台上にあがっては、誰からともなくこの群唱をはじめるのが当時のお決まりだった。
本来の芝居では5人の男が逆光の中、この群唱をしながら立つシルエットのカッコいいものだが、それを打ち上げ後の仲間がやると酔って足元がふらついているので、客席側のギャラリーは「立ち続けられてねーじゃん、やり直ーし!」とヤジいれて笑う。
でも私はこの群唱をきくと涙がとまらなくなりそうで抑えるのに必死だった。
当時は世紀末。
「21世紀はない。それまでにハルマゲドンがくる。教えを知っているにも関わらず離れた者にはさらに恐ろしい滅びが待ってる」と、物心つかない頃から言い聞かされて育った。
永遠に生きたいと思ったことはない、むしろ死にたいのに、ハルマゲドンで滅ぼされるのはとてつもなく怖かった。
あの教団から離れ、教え込まれた教理の矛盾に気づくようになった大学生当時にはもう、ハルマゲドンの教義自体は「そんなわけなかろう」と恐怖感は薄れていたものの、迫りくる21世紀は私の中でずっとなかったはずの未来。
…なんで私はまだ生きてる?
なかったはずの21世紀がくるけど、未来が全くみえない中、いつまで生きていかなあかんのやろ…と、寄る辺のない気持ちでいっぱいだった。
本当は…世界が終わってくれたらよかった。
そしたら私も終えれるから。
私は生きたいわけじゃなく、一人で死ねなかっただけ。
手首に傷をつけても、それ以上深く強く切り込めないだけ。
過去のトラウマゆえなのか、
モラトリアム大学生によくあるといわれるアパシーてやつか、それともバブル崩壊、就職氷河期など暗いニュースが続く時代の閉塞感がそうさせるのか、当時はバイトやサークルで仲間とワイワイやりながら…その瞬間瞬間は確かに楽しんでいたものの、根底にはずっと破滅願望があった。
今は割と安定した仕事、捨てられないもの守りたいもの、社会的責任など、私を「生」に引き寄せ繋ぎとめてくれる因子がたくさんある。
「死」に魅了されやすい私は、「生」に寄せるため敢えてそれらを持とうとしてきた部分もあるかもしれない。
でも学生時代の私は、親との関係もほぼ断ち、恋人と呼べる人もおらず、なんの手からも離れアテもなく空を漂うだけの、いつ破裂するか分からない風船のような軽い存在で、自由ではあっても、その軽さに耐えきれずベクトルは容易く死に向きやすかった。
あの群唱は、終わりのこない終末感を生きる、仲間がいるのに孤独…
そんな状態を引き受け立ち続ける覚悟をつきつけられるかんじがして、酔っ払いながらも舞台に立ち群唱を続ける仲間たちがカッコ悪く美しくバカなことに…
酔っていたこともあって泣けた。
25年以上を経ても、「朝日のような夕日をつれて」の群唱は、きっと私の芯のようなものになっている。
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