
正解が知りたい*𓈒
この選択は正しいのか?
この方法で良いのか?
これで合っているのか?
いつも思う。
そして、正解を知りたくて、正解を知っていそうな人に確認してみる。
私はずっとそれを繰り返している気がする。
私が欲しい正解を知っているであろう人に教えを求めるけれど、結局、正解は私しかわからないのだろうと結論に至る。
だって私の人生だから。
仕事のことを上司・先輩に相談して、仕事に関する正解は得られるけれど…
それも人や時代が変われば正解が変わる。
今の上司・先輩の正解はそうかもしれないが、人事で簡単に覆る。
上司・先輩の正解を全部自分の正解にしてしまうわけにはいかない。
「そういう風に教わったから」
「以前からのやり方だったから」
は、疑問を持てと会社全体の風潮。
上司・先輩の助言は参考にしながら、自分の軸で考えて自分の正解を探さなくてはならない。
体調に関することなら、正解を知っているのは医者を考える。
でも、明らかに病名がつく病気なら薬や外科的療法で治療が必要だけど、結局は日々の生活の積み重ねだ。
薬だけでは根本は治らないものもある。
自分にとって一番体調良く過ごせる日々の生活は、自分で見つけていくしかない。
心の医者である精神科医も正解は教えてはくれない。
一番悩むのが生き方だ。
自分にとっての適職は?
自分にとっての幸せは?
自分に合う人は?
そんなことや未来が知りたいから、占いが大好きだ。
西洋占星術のロジックが知りたくて学んでみて、自然を観察し自然と共に生きていこうとする人間の叡智だと感動する一方で、なんでもわかる魔法ではないのだということもわかった。
占い師は正解を知っているように見える。
ある程度の方向性や正解のピースは見つかるかも知れない。
けれど、正解はやっぱり自分しかわからないのだ。
だって、これは自分の物語なのだから。
採点する基準も自分自身だ。
人から見てどんなに素晴らしい人生でも、自分が悔いの残る人生だと思えばそれまでだ。
逆を言えば、自分が満足できれば人からの評価は関係ない。
それがわかっていても、やっぱり正解が知りたいと願ってしまう。
誰かにこれが正解だよと言って欲しい。
その方が楽だから。
考えなくて、悩まなくて済む。
でも、それはそれで誰かに言われた正解に疑問を持つのだろう。
自分だけの正解をずっと探し続けるしかない。
あぁ 答えがある問いばかりを 教わってきたよ だけど明日からは
僕だけの正解をいざ 探しにゆくんだ また逢う日まで
次の空欄に当てはまる言葉を
書き入れなさい ここでの最後の問い
「君のいない 明日からの日々を
僕は/私は きっと □□□□□□□□□□□□□□□□□□」
制限時間は あなたのこれからの人生
解答用紙は あなたのこれからの人生
答え合わせの 時に私はもういない
だから 採点基準は
あなたのこれからの人生
「よーい、はじめ」