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【日向稲門会 会報誌寄稿】水のようなもの

仕事のパートナーに、私の役割は「水」だと言われた。なるほど、と思った。
終身雇用にも限界が見え始め、今や転職するのはあたりまえ、起業したりフリーランスとして働く人も少なくない。会社員の副業も認められはじめ、これまでの働き方の価値観はもはや過去のものとなりつつある。インターネットがつながっていれば、パソコン片手にいつでもどこでも仕事ができる時代なのだからそれも当然のことだろう。
個人でできることの幅が広がったことで、仕事にしろ趣味にしろ、やりたいことを実現しやすい、少なくとも挑戦しやすい社会になってきた。ワクワクが止まらない人も多いはずだ。
だからと言って、みんながみんな何か特別にやりたいことがあるわけではない。むしろ、やりたいことがなければならないという強迫観念めいたものがねっとりとまとわりついてくるのを確かに感じる。私はといえば、特に強くやりたいことがあるわけでもなく、かといって何にでも対応できるほどの器用さは持ち合わせていない。そんな私だが、世の中にはわずかに自分の役割があると知った。それが冒頭の「水」だ。
その仕事のパートナーは次から次へとやりたいことが溢れ出てくるタイプだ。問題はいつも、示した方向性をメンバーが現実的な形に落とし込めるか否かにあった。なぜなら、そのアイデアには先見性と新規性、独自性が多分に凝縮されているがゆえ、まるでカルピスの原液かのように、そのまま飲むには濃すぎるからだ。そんな時に必要となるのが、多くの人が飲むに適した濃度にまで薄めるための「水」である。つまりは嚙み砕いてメンバーに落とし込む作業を私が担っているというのだ。
はて、いついかにして水としての力量を得られたのだろうかと思い返せば、卒業論文や修士論文の指導を受けたことに起因するのかもしれない。論理性と客観性が求められる論文は、理論の枠組みや言葉の定義、引用などに嫌と言うほど気をつかう、誰が読んでも誤解なく伝える試みだった。花開くことはなかったと思われた論文の修練は、意外にも「水」のようなものとして顕れた。
原液は作れなくても、それを美味しく生かすための水の役割がある。目立ちはしないけれど確かに必要なものだ。もしかすると氷の人もいればグラスの人もいるかもしれない。そうして社会はできている。やりたいことが見つからないと悩むくらいなら、もうカルピスを目指すのはやめてもいいんじゃないか。水でも氷でもグラスでも、人知れずただそこにいればいいのだから。

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石原英明 ―チリチリウォーズマン―
自分の真意を相手にベラベラと伝えるだけが友情の行為ではないということさ。それがわたしの提唱する真・友情パワーだ…(キン肉アタル)