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岡本太郎の喝:自分らしく生きるということとストーブの昔話

岡本太郎の本を読んでいる。『自分の中に毒を持て』だ。既に読んだ人も多いと思う。私でさえタイトルは知っていた。

私の中で岡本太郎は「突拍子もない激しい人」(失礼!)というイメージがあって近寄りがたかったのだが、ふいに、私が勝手に抱いたこのイメージの真偽を知りたくなったのだ。

冒頭からガツンと一発食らった。

「ふつう自分に忠実だなんていう人に限って、自分を大事にして、自分を破ろうとしない。」(p11)と彼は説く。

例えば、目の前に2つの選択肢があるとする。1つは慣れ親しんだ安全な道、もう1つは、こっちに行ったらどうなってしまうんだろうという不安や危険を伴う道。さあ、どっちを選ぶ?

自分に忠実であることを口実に、見通しがつく安全な道を選ぶのは、自分を甘やかしているだけに過ぎなくて、”本当に”自分に忠実に生きるためには、自分の中の臆病さと戦って、自分の殻を破っていくべきだ、ということらしい。(そう私は理解した)

話の筋から少ぉ~しズレるかもしれないが、私の初突破は4歳ぐらいの頃(最近その頃のことをよく思い出す)。親の言いつけを破る、というショーモナイことだけど。

冬の北海道。居間でストーブを焚いていた。母親が「ストーブに触っちゃダメだよ。熱いからね。」と私に念を押して台所に向かった10秒後に、私は人差し指を伸ばしてストーブを触ってしまった。

今の暖房器具と異なり、昔は金属部分がむき出しだった。とても熱かったと思う。私の泣き声で戻ってきた母親が「だから言ったでしょ!なんで言うことを聞かないの!」と叫んだように思う。それ以来、私が大人になってからも、事あるごとに母親がその昔話を持ち出すので、忘れたくても忘れられない出来事になった。

その時の私の頭の中は、このストーブは熱いというが、果たしてどのくらい熱いのか、という疑問が広がっていて、その疑問を確かめずにはいられなかったのだ。

この好奇心なのか探求心なのか分からない感情は、大人になってからもちょくちょく頭をもたげた。「四つ子(?)の魂百まで」とはよく言ったものだ。

例えば、新卒で就職した会社で事務職として働いていた私。「営業は大変なんだぞ!」という営業マンの自慢話を聞いて、それは本当なのかを確かめたいがために営業職に転向してしまった。かれこれ30年近く前の出来事で、私もまだ若かった。

当時、その業界では「女性は事務職、営業職は男性」が一般的で、それを破って営業職になったわけだけど、どの顧客に売り込むのか作戦を立てたり、顧客と話をすること自体は結構楽しかった。しかし、5年やってみたところで自分にはこれ以上無理だ、という結論に至った。

一番の理由は商材だと思う。バリバリ文系の頭しかない私が扱っていたのは、開発用のソフトウェア。コンピュータやその上で動くソフトウエアのメカニズムは難しく、私には理解できないことだらけ。しかも日進月歩の世界だから、せっかく覚えた知識や情報が翌月変わるということは日常茶飯事だった。常に勉強していないとついていけないし、顧客に迷惑がかかってしまう。そのうち、興味のないことを勉強し続けることは自分にとって意味のあることなのだろうか、という疑問が生まれ、それがかき消せないほど大きくなった。そして、3年後にこの会社で働いている自分が想像できなくなってしまった。

この時、私の前には選択肢が2つあった。1つめは、しっかりと勉強をして自分自身を成長させ続け、この会社で働き続ける道。2つめは、新しい可能性にチャレンジするために、会社を辞めるという道。私は迷わず、2つめの道に進んだわけだが、どちらが”本当に”自分に忠実な生き方だったのか、今でも問いかけている。



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