「宗教1世」が宗教に依存した哀しみを考える
1.母は、嫁ぎ先と狭い地域社会から解放されたかったのだろう
今日は「伝統キリスト教1世」であり、私から見たら「虐待加害者」である母の話をします。
これまで母の虐待については書いてきて、これ以降の記事でも続いていきますが、
(私の年齢が進むにつれ、虐待の質が変わっていきます)
そんな母にも人としての哀しみがあり、それが教会コミュニティへの依存につながっていったのだろうと理解はしています。
(すみません。ここでは「神様に出会えたから」「神様のお導きで」「神様の愛」のような、美しい話は出てきません。
それらは、子ども自身を尊重できないレベルまで依存する説明にはならないと考えているからです)
宗教2世が生まれてしまうのは、宗教1世が宗教にどっぷり依存してしまうからです。
(カルトではこの言い方は不適切だと思います。私のいた宗派では、親世代の依存度はバラバラだったので、こうした表現をしたまでです)
そして宗教1世はなぜ、そこまで依存してしまうのかを考えることも必要だと思います。
たとえば母は、嫁ぎ先の家父長的な空気に苦しんでいました。もう嫁の人権なんてない世界です。
細かい事情は書けませんが、母を肯定的に見ることのできない私でも「あれば酷すぎる」と思います。
母が苦しんだ嫁ぎ先のあれこれと、私への宗教虐待とは別問題ではあります。しかし母が嫁ぎ先で居場所を見つけられていれば、
「教会でよく見られたい」
「そのために娘を社会的な面でも信仰的な面でも、褒められる子に育てなければ」
「あわよくば娘を教会で褒められるような結婚をさせ、さらに教会で褒められたい」
というところまでは行かなかったように思うのです。
また母は典型的な専業主婦で、嫁ぎ先のコミュニティと、狭い地域社会のコミュニティとで窮屈な思いを日常的にしていました。
信田さよ子さんが以前、文春WOMANで漫画家の菊池真理子さんと対談されていたときに、
と信田先生がおっしゃっていたのを読み、初めて母のキリスト教への傾倒ぶりが少し理解できました。
※信田さよ子さんと菊池真理子さんの対談記事はこちらです。
ただやはり、こうした女性(母親)が信仰するのはカルトに限らなくて、伝統宗教にもあるということが見落とされる悲しさよ…。
2.宗教1世には「解放」、2世には「しがらみ」となる教会コミュニティ
そんな背景もあり、母にとっての教会は「第3の居場所」だったのでしょう。親戚関係からも地域社会からも距離があるコミュニティなため、解放感もあったのではないかと思います。
これは日本のキリスト教が、地域社会のコミュニティから「浮いている」からこそ得られる、信じる側のメリットだと思います。
しかし、こここそが宗教1世と2世とが分かり合えない部分なのです。
1世の母にとって、教会コミュニティが「解放」でも、2世の私にとっては母に紐付けされた人間関係(はっきり言っちゃうと「しがらみ」)が一気に増えるだけ。
それも私にとっては「あのすぐに機嫌を損ねて殴ってくる母」の関係者。絶対に嫌われてはいけない相手(数十人規模かそれ以上)なのです。
同じ集団と付き合うにしても、1世と2世とでは感じ方や負担感がまったく変わってきてしまいます。
それもね、教会のおばちゃんたちって、通ってる子どもたちの悪口をよく言うんですよ。
「可愛げがない」とか「良い子ぶってる」とか。
(この辺りの話は、また書く予定です。書く予定、多いなあ私…)
大抵自分が1世という人たちで、2世が抱えるしんどさなんて想像しようともしないんです。
(ああ、教会の子供たちの悪口言ってる女の人の子どもが一切教会に現れないってパターンもあるな…。)
3.宗教1世にとっても、結局宗教はしがらみになる
私が自分の結婚問題がきっかけで教会に行くのをやめたとき、母からは、
「教会の人たちから可愛がってもらったのに。祈ってもらったのに。この恩知らず!」
と散々罵られました。
私からしたら、「2世3世の子供たちの悪口を言ってた人たちに可愛がってるなんて言われてもな」というのが正直な気持ちでした。
それどころか教会の人たちは、後々私がメンタルを病んだときに母の側に立った人たちです。
恨みはないものの、私から義理立てすべきものは何もなかったのです。
私からしたらね…。
・勝手にマイノリティかつ偏った思想信条のコミュニティに巻き込まれた。
・大人たちの顔色を伺って、窮屈な思いをしつづけた。
・頼んだ覚えもないのに、祈ってやった可愛がってやったと恩を売られた。
もうね、離れるしかなかったのです。
大人になれば、どんな人たちと付き合うか(付き合わないか)、どんなコミュニティと関わるか(関わらないのか)、決めるのも自由なのですから。
しかもね、母が私が教会に行かないことを責めるとき、怒鳴ってきたんです。
「あなたが急に、教会に行くのをやめたら、みんなどうしたの!?って思うじゃないのおお!」
そう言われた時の、私の気持ちは、
「そんなに教会の人たちにどう思われるかが気になるの?そんな窮屈な人間関係、距離をとったほうが絶対に楽なのに…。」
というものでしたが、母はもう教会について「そこが窮屈だ」と思うことさえないのでしょうね。
しがらみから自由な人間関係以外の居場所がほしくて教会に行ったのに、いつの間にか教会のほうが「しがらみ」になっている。
私の母を見ていると、宗教1世の欲しかったものは、結局宗教で得られたのだろうかと考えてしまいます。
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