宗教から離れられないのは「脅し」のせいだけではない
1.大学入試直前、急に神が怖くなり悔い改めた私…
私は大学受験の勉強をしていた当時、昨日のnoteに書いたような状態にありました。
もっと大変な人がいることは分かっていても、自分が不利な状況で受験に臨まなければいけないという事実は、感じざるを得ませんでした。
大学入試の日が近づくにつれ、私は怖くなりました。
もし私が大学に受からなければ、怒りを抑えられず、自分が家族に危害を加えてしまうかもしれないと不安でたまりませんでした。
自分が犯罪者にならないためにも、大学には受からなければならない。
でも私は今までの人生で、神に散々恨み言を言ってきたから(この頃は、神の存在と力を信じていました…)、神が味方をしてくれるとは思わない。
神に対して納得はしていないけど、神に謝ることにしたのです。
思い立ったら吉日で、その日の私は授業が終わると所属教会に直行しました。
そして司祭に、受験をまえに告解させてほしいと頼んで、犯した罪を聞いてもらいました。
(この神父様のことは嫌いではなかったです。)
※「告解」…今は私のいた宗派でも「赦しの秘蹟」と言うそうです。信徒が司祭に犯した罪を告白しなければならないという教えですが、詳しく説明はこちらの記事にまとめてあります。
それからいざ試験当日、合格発表をむかえ、神のご加護があったのかなんなのか、私は第一志望の大学に合格することができました。
その時は神にも感謝しました。試験直前に教会に駆け込んでおいて、その直後に神を全否定するのとは、さすがにしないかな。
この時のことは、それでおしまい!だったのです…。
2.「神を信じないと不幸になる」という謎の信念…
問題はこの数年後。
大学在学中にメンタルを崩し、動けない日々が数年間続いたながらも結婚によって地元を離れ、キリスト教自体が自分に合わなかったことに気づき…。
それでも私は、「神を完全に否定したら、自分は不幸になるのではないか」と怯えていました。
私のいた宗派では「神様信じないと不幸になるよ」とは言いません。そのため自分でも、なぜそんなふうに思ってしまうのかが分からずにいたんです。
その後何年もかけ、いろんな本を読みながら、自分のなかでのキリスト教の割合を相対化していくことで、こうした恐怖はやわらいでいきました。
※そのときの話はこちら。
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そして私が神様を信じないと不幸になると信じてしまった理由が分かったのは、山上容疑者の事件が起きたあとのことでした。
あの事件のあとから、私はキリスト教絡みの記憶の洪水に悩まされるようになりました。
そんな中、ぼんやりと、
「私って高校生のときは、真面目に信じてたよねえ」
と今回の記事のエピソードを思い出し、
「ああ、私がキリスト教を離れられずにウジウジしていた遠因は、まさかの大学合格か…」と気付いたのです。
脅しは他人に言われることばです。
でも祈って「良いこと」が起きてしまうと、自分自身が「神様には私の人生を左右する力がある」と思い込んでしまう。その私の人生を左右できる神様を信じるのをやめたらどうなるか…怖かったのも当然だなと。
他人に言われた言葉よりも、自分が作り出してしまった思い込みのほうが強力なのだと気付かされました。
3.「神はいるけど、私の人生に関与はしない」
今の私は、神はいるかもしれないけど私の人生に干渉する暇はないだろうなと思うようにしています。そのほうが(あくまで私の場合)気楽に生きられるから。
あくまでも仮説です。
でも仮設のままでいい。
正解に辿り着かなくても、楽しく生きていくことはできるから。
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