キリスト教1世の母は「特別な人たちの一員」になりたかったのだと思う
前回・今回のnoteと、母がバランスを欠いた形でキリスト教にハマっていった理由を考察しています。
ここでは、キリスト教の「神がもたらすめぐみ」云々と言った話はいたしません。そうした話は既にあちこちにありますから。
1.欧米への憧れが強く、クリスチャン作家が活躍していた時代背景
キリスト教をめぐって母と私が噛み合わなかった理由のひとつに、「キリスト教などの西洋的なもの」をどう捉えているかというのがあると思います。
母の世代は、欧米への憧れが私の世代とは比べ物にならないくらいに強かったと思います。
母が子ども時代を過ごしたころの日本にとって、欧米は今以上に進んだ存在であり、お手本だったのだのでしょう。母の言っていたことを思い出すと、キリスト教はそうした文脈の中にありました。
また母は教会に通うようになる前から、「クリスチャン=インテリ」というイメージを持っていたようです。
母が若い頃は、遠藤周作や三浦綾子といった今でも著名なクリスチャン作家が活躍してきましたた。曽野綾子さんもあの頃は、あんなことやこんなことも言わず、美人で知的でユーモアのある女性というイメージだったそうです。
クリスチャンの知識人が、日本でのキリスト教のイメージを良くしていた部分はあっただろうと想像しています。
かたや私の世代は、欧米への憧れはそこまででもないし
(学ぶところはあるとはいえ)、
分かりやすいクリスチャン著名人も少ない
(いらっしゃってもクリスチャンを前面に出してなかったり、そもそも作家の地位があの頃ほど高くなくなってしまっていたり…)。
母が感じていたキリスト教とその周辺への憧れを、私が理解するのは難しかったのです。
そもそも動機を理解したところで、それを信仰するかは別の話ですしね。
2.ハイソサエティ層が多い、クリスチャンコミュニティへの憧れ
そしてこのクリスチャン知識人のイメージが、実態とそこまで離れているかと言うと、そうでもなく…。
実は、日本のキリスト教会はハイソサエティ層の会員制社交クラブのようなところがあります。少なくとも私のいた宗派はそうでした。
比較的裕福で、教育歴も高くて、上品な人たちが多かったです。
(でも母のように、どこか病んでいながらハイソサエティさを求めた人も一定数いたと思います)
母はこうした人たちへの憧れが元々強い人でした。
「普通だったら会うことのない人たちが、教会では気さくに話しかけてくれる」と、よく嬉しそうに話していました。
キリスト教や、「今生きている人たちがわざわざ自分で選ぶ宗教」は、選民意識を与えてくれるように思います。
さらに日本のキリスト教の場合は、社会的にステータスの高い人たちが多かったことが、教会コミュニティの一員になることで得られる「特別な私たち」という自己イメージを補強していた面はあったのではないでしょうか。
3.そしてハイソサエティなイメージが、子どもへの無言の圧に!?
かくして私は、母親のハイソサエティな人たちの一員になりたいと言う願望も手伝い、キリスト教コミュニティに入り込むことになりました。
(ちなみに私は超のつく庶民です…)
そうしたものを求めている人たちにとって、キリスト教コミュニティはそれなりに居心地もいいと思います。
とくに私のいた宗派は、過度な献金被害も聞いたことはなかったし…。
ただ「私たちは特別な人たち、それもハイソな人たちなの」という自意識の集団に放り込まれるというのは、子どもにとってはそれなりに苦痛でもあり…。
つぎの記事では、教会の大人たちが子どもたちに当然のように寄せる期待と圧力について、書いていきます。
今日の記事は少し短いですが、ここまでにいたします。
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