当事者が「うちの宗教に2世問題はない」という言葉に思うこと

お越しいただいて、ありがとうございます。
私は最近になって、頻繁にnoteを更新するようになりました。少しまえまでは宗教2世問題なんて忘れて、自分の人生に集中しようと考えていたにも関わらずです。

今日は、なぜ私が自分の宗教をめぐる生い立ちをまとめることにしたのかをお伝えします。

1.私は、宗教虐待が取り上げられていない「伝統キリスト教」の出身です

まず、伝統キリスト教という言葉が存在するのか私には分かりかねますが、深刻な宗教虐待が問題になっている「エホバの証人」と区別するために、この言葉を使っています。
いわゆるキリスト教の穏健な宗派でも宗教虐待は起こりうるのだと、書き残しておきたいからです。

過去にnoteで私の経験を綴っていたところ、クリスチャンの方から「エホバの証人がクリスチャンと名乗ってる」というコメントを書き込まれたことがありました。

よほど、キリスト教の中でも苦しんでいる2世がいることを認めたくなかったのでしょう。

そんな空気は、私が所属していた宗派にもあるようでした。以前Twitterで「(私の所属していた宗派名)+宗教2世」で検索したことがあります。

すると私の宗派に所属している方が「(宗教2世問題のニュースを見て)ざわざわする」と発信してらしたんですね。そしてそれに対して、同じ宗派の人が「私たちは統一教会とはまったく別なのにザワザワするなんておかしい」と強い調子で書き込んでいました。

ザワザワすることもダメなのか。
よっぽど自分たちのいるところに宗教2世問題があると思いたくないんだなと…。

2.「私もいたんだよ」と言いたくなるのだ

私はそうしたやりとりを見ても傷つくことはありません。その中で育ってきているので「まあ、そんな反応だろうな」という程度です。ただ…。

それが理屈に合わない感情なのは分かっています。
ですが、宗教虐待で苦しんでいた私という子どもが最初から教会には存在しなかったように扱われているような、寒々しい気持ちになるのです。

私は、キリスト教1世だった母親の気に入らないことがあると、「お前なんか地獄だ!」と言われながら暴力を振るわれました。

※私が経験した宗教虐待と概略はこちらです。

そんな境遇にいながらも、教会では「子どもの頃から神様を知ってるなんてお恵みよねえ」と言われて、私の気持ちとは関係なく"幸せな子ども"にカウントされていました。自分がいるようにいないように感じる、あのときの虚しい気持ちが蘇ってくるのだと思います。

そして、神様に祈っても祈っても、母の暴力から助けてくれる手はどこからも差し出されることがなかった絶望感を生々しく思い出すのです。

伝統キリスト教の牧師さんが、宗教2世ではなく「カルト2世」ということばを強調したがったり、伝統キリスト教の信者たちが、自分たちは全く関係ないという態度でカルトの宗教虐待に"同情"しているのを見ると、
「あなたたちの中に、私もいたんだよ!!」と言いたくなるのです。

教会の人たちのあいだでは存在しないことになっている子ども。
これからも存在しないことにしてくれたほうが都合のいい子ども。


それが私です。


3.無理やり「忘れる」ことは、あの頃の私を「いなかった」ことにすること

とあるクリスチャンが、教会で苦しんだり傷ついたりした人たちについて、Twitterで話していました。
教会のことなんて忘れることが、キリスト教への一番の復讐になると…。
それを読んだ私は、苦しめた側(という言い方も好きではありませんが)に都合のいい理屈だなと思いました。

苦しんだ記憶をどう扱うかは、私が決めることだと…。
無理やり忘れることは、あの時ひとりぼっちで生き延びていた私を存在しなかったことにすることだと。

私は、自分のキリスト教をめぐる半生を書き残すことで、あの頃の私に伝えたいのだと思います。

「誰がなんと言おうが、あなたは確かにそこで踏ん張って生きていたんだよ。
 絶望のなか、生き延びてくれてありがとう


それが、私にとっては過去を弔うことになるのかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?