
キリスト教の性への抑圧と、今の性教育を比べてみる
1.【私の青春】婚前交渉禁止、そして罪を犯したら司祭に告白しなければならない恐怖
私はいわゆる伝統的なキリスト教の2世です。今日はその立場で経験した、恋愛の難しさについて書いていきます。
大学時代、私は彼氏が欲しかったです。
高校までは勉強、勉強だったし、私服の高校なのに母親が服を買ってくれないしで、そんなものは諦めて暮らしていました。
大学に入学し、それらから解放されて、私も人並みに恋愛に興味を持つようになりました。
しかし我が家もクリスチャンホームの例にもれず(と言いつつ、よそのお家はどうだったのか知らないけれど)「婚前交渉禁止」は絶対でした。
母親からは、
「男の人は、どんなブスでも欲望のためなら可愛いとか好きだとか平気で言うから騙されるな」
「本当にちくわを大切に思っているはずの人なら、結婚まで待ってくれるはずだ」
と、性のタブーに加えて、男性への不信感まで植え付けられました…。
加えて私のいた宗派は、罪を犯したらそれを司祭に告白しないといけないんです。
これほど制度自体が加害的だと思ったことはありません。
(後々、欧米でのカトリックの性的虐待事件で加害者と被害者があまりに多かったことを知ったときには、
よくもまあ、この団体が信徒の性の問題に立ち入って罪人扱いしたり、罪を赦したりする立場に立ったりしていたものだと怒りが湧きました)
罪を牧師に告白することが義務ではないプロテスタントが羨ましくて仕方がなかったです。
※元々罪の告白(カトリックでは、赦しの秘蹟という)が苦痛だった話は、こちらに書いています。
そんなわけで私は大学生の間、彼氏はできませんでした…。
なんとなく好意を寄せてくれた人がいても警戒してしまったり、過剰防衛できつい対応をとってしまったこともあります。
何より男の人が怖かった…。
とはいえ周りはそんな事情を知るわけもありません。私は、女子の友人からも
「高望みすぎるんじゃないの?」
と、よく言われていました。
そんな話なら良かったよね…。
本当のことは、誰にも言えなかったな。
今は幸せだけど、あの頃しかできない恋愛もあったはず。そこから学べることもあったはず。
青春返せ、だな。本当に。
私は大学卒業して数年後、クリスチャンでない男性と付き合って結婚しますが、その辺りの感覚がちがう人とのお付き合いは本当に勇気のいるものでした。
母親からも言われましたよ。
「今の人と別れて、他のクリスチャンと結婚するときに困るから、婚前交渉禁止は守れ」とね。
なんだ私、どこかの家に売り飛ばされる家畜みたいな扱いだなと…。
今の私だったら、親だからってセクハラして許されると思うなと言い返すかもしれません。
中高生ならまだしも、成人後の娘の性事情に干渉してくるのは異常だと思います。
2.今どきの性教育と、罪と裁きでしばる教会、
どちらが人の尊厳を守っているだろう…
教会が性の問題を厳しく禁止してきたのは、その当時は不幸な妊娠や性病を防ぐ意味もあったのかもしれません。
今は色々防ぐ手立てがある以上、それらの禁止にどこまで意味があるのだろうかと思います。
少しまえに、今の時代の性教育を学ぼうと本を読みました。自分が受けてきた「性教育」(罪の脅迫)が偏っている自覚はあったので、我が子にどう伝えるのか学んでおきたかったのです。
今は幼い子どもたちのための性教育の絵本もあるんですよね。
もちろん時期に合わせた内容で、生殖の仕組みなどは書いていません。
ただ自分というものと身体は、とても大事であること。とくに大切な場所(性被害を防ぐためと、後々年齢にあった教育をする基礎として教えています)があることや、被害に遭いそうなときに助けを呼ぶことなどが書かれています。
私が中でもハッとさせられたのは、万一被害に遭ったとしてもあなたは悪くないのだと、あらかじめハッキリ書いていることです。
大人がどんなに防ごうとしても絶対はないんですよね。今の性教育は身を守ることと、あってはならないけど被害に遭ったときに、それが本人のスティグマにならないようにという配慮が両輪になっているのだと気付かされました。
罪と裁きで、性の問題に対処してきたキリスト教界のやり方は、私の青春時代の彩りを奪っただけではないんだなと…。
性被害に遭ったり、不幸な結果になってしまった人たちをさらに追い詰めては来なかったかと…。
キリスト教から離れて子育てしながら、そんなことを考えています。