キリスト教が地獄で脅したとか脅してないとか②


前回の記事では、私が子どものころ、どう地獄について教えられてきたかを書いてきました。


ただ私のいた教会では、礼拝の説教などで日常的に地獄について教えられていたわけではないんです。それでも何故、地獄があんなに恐ろしかったのか。今日はその辺りのことを書いていこうと思います。


3.地獄の脅しは、教会を離れる時にだけ作動する

3-1.「罪を赦されて、心が軽くなる」気がしたけれど…

私の母は、宗教関係なくても暴力暴言ひどい母でした。しかし宗教という「最強の虐待する武器」を手に入れてしまいました。

母が私を連れて教会に通うようになった後は、私が母の気に入らないことをすると、母が
「お前なんて地獄だ!」
と言いながら殴るようにもなりました。

ただし良いのか悪いのか、教会で洗礼前の勉強をしていたから、母の言い分で地獄に落ちることはないだろうと冷静に思っている自分もいました。

何よりも、教会コミュニティに属している間は、地獄の存在を教えられても怖くはありません。
私のいた宗派では、(すごく苦痛だけど)司祭に罪を告白すれば、罪が赦されることになっているから。

宗教って不思議です。本気で信じ込んでいたときには、罪の告白をして赦されたあとは心が軽くなった気持ちになりました。 

ただし長ずるにつれ、この罪の意識も教会に教育された結果なのではないかと思い始めてしまい、そうしたこともなくなりました。
そのあとは、ただただ苦痛しかなくて…。罪を赦されないのが怖いから告白しているだけでした。


3-2.「教会と関わりたくない!」と思った途端に襲ってくる、罪と地獄の恐怖

さらに、司祭の振る舞いを見ながら、この人たちがイエス様の代わりをする人たちだとは到底信じられなくなりました。
(全ての司祭が悪いわけではない…それは分かっているけれど。)


それ以外にも、母が私への虐待をめぐって教会の人たちを味方につけてしまったり、私が心身ボロボロになったときに教会で追い討ちをかけられたりと色々あり…。

もう二度と教会コミュニティとは関わりたくない、なんならこの人たちのご機嫌をとる余裕は今の私にはないと思いました。
でもそう思った瞬間、急に地獄が恐ろしくなったんです。

あの宗派で育った人間にとっては、
教会から離れる
=司祭から罪の赦しを得る機会がなくなる
=地獄行きの可能性が高くなる

と言うことを意味したからです。
これって逆に言うと、
「教会を離れようと思ったことのない人たちは、地獄の恐怖を感じることはない」
ということでもあって…。
これこそが、信じる人間と信じない人間との間の溝になっているのかなと思います。

私がこの仕組みは理不尽だと思うのは、教会で傷つく経験をして「もう二度と関わりたくない!」と思った人ほど、地獄の恐怖が強くなってしまう気がするんです。
そのコミュニティの負担が大きくて、心身の回復にも悪影響なのに地獄が怖くて離れることができないって、やっぱり不健康なんじゃないかなと…。

私も自分の健康を守るためにも、地獄の恐怖をぬぐうことがとにかく必要でした。それは思わぬところから解決しましたが、そのことは少し先の記事に書く予定です。

つぎの記事では、最近SNSのキリスト教界隈で良く聞く「万民救済説」についてのモヤモヤを書くことにします。

(追記)書く予定でしたが、私の当時の経験に根ざさない批判にしかならない気がしたので、取りやめることにしました。もう少し、いろんな記憶から楽になったら書く日が来るかもしれませんが…。


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