教会の聖職者の権威を信じられなくなったときのこと
1.結婚式の手続きの行き違いで、司祭から理不尽に怒鳴られ、説教される…
伝統キリスト教2世として育った私は、ほぼ無宗教の夫と結婚しました。
ただし式は所属宗派の教会で挙げました。キリスト教1世の母の教会での体面を守るためと、私自身キリスト教とどう付き合いたいか(自分が教会には通いたくないことは分かっていたけれど…)結論が出ていなかったからです。
その教会で挙げるための手続きが、すごく面倒くさいのです。
私は所属教会、洗礼を受けた教会、挙式を希望する教会がすべて違います。この3つの教会の間で、洗礼証明書や結婚許可証などの書類をやり取りしていただかなければいけないのです。
そして、許可をいただいたり、手続きしていただいたりするためには司祭のご機嫌を取らなければなりません。
そのとき、私が司祭という人たちへの疑問が決定的になった出来事がありました。
私は所属司祭から、受洗教会と挙式を希望する教会とに、書類を依頼するよう言われました。しかし挙式を希望する教会の司祭は、それが許せなかったようです。
依頼するのはあくまで司祭だということで、挙式希望の司祭と面談した時、私は延々怒鳴られました。
「信者が書類を依頼するなんてありえない!司祭と信者の区別がついてないから、そういうことになるんだ!」
私が所属司祭からの指示でやったと説明しても、司祭と信者の区別がついてないと同じことを繰り返すばかり。この時私は知りました。
司祭という人たちは、司祭と信徒との間でトラブルがあったときには「信徒が悪い」ということにしないと、気持ちが収まらない人たちなんだなと…。
目をひんむいて、よくあんな表情で他人に相対することができるなあと呆れましたが、ここで挙式の許可をもらえなければと頭を下げ続けて耐えました。
(その後、この司祭が夫と話したときには打って変わって、一般社会の感覚も分かる柔軟な司祭として見事にふるまっていました。
夫が男性で、かつ信徒でなかったことも大きいと思います。権威を振りかざしていい相手とそうでない相手とを使い分けているように見えました。)
私が知っている司祭は(中には気さくな人もいましたが)、司祭と信徒の立場の違いに敏感です。
私の所属教会の司祭は、メンタルを壊した2世たちのことを「今の子は弱いからすぐに死ぬ」などと平気でいう人間でした。
でもこの司祭の苦悩の内容を知ったとき、私は衝撃で言葉がでませんでした。
「司牧生活がつらい。今の信徒は、司祭と信徒が同じだと思っている」
というものだったからです。
私はこの司祭から「弱い人間だ」なんだと侮辱をされてきました。結婚許可をもらう場面でも、ここぞとばかりに言ってきました。
それが、そんなことが苦しいと言うのかと呆れるしかありませんでした。
そして、司祭が信徒に生活を支えられていることを感謝しているのを見たことがないことに気付きました。卑屈になることはないけど、(私はメンタル壊して無職で、献金払ってなかったけど母は払ってました)生活を支えてくれてる人たちを最低限尊重することはできないのかなと…。
2.母から「司祭が結婚式をすることは、イエス様がしてくださること」と言われて…
私は日頃、母の気持ちを逆撫ですることは言わないように気をつけていました。夫との交際、結婚の準備で母からは暴言を受け続けてきたので、まったく余力がなかったからです。
(ちなみに母からの攻撃と、司祭からのパワハラで参ってしまった私は、ダイエットもしてないのに、やつれた状態で結婚式を迎えました。
母と司祭たちに共通していたのは、
「本人にとって一生に一度かもしれない場だから、晴れがましい気持ちで当日を迎えさせてあげよう」という思いが一切感じられなかったことです)
ただ司祭の理不尽な説教については流石に耐えかね、私は母に言いました。
「あんな人に私の大事な結婚式をしてほしくない。◯◯くん(夫)もそう言っている」と。
母もさすがに挙式司祭のふるまいには驚いたようでしたが、
「ちくわ、(司祭が司式すれば)イエス様が結婚式をやってくださることだから」
と慰め(?)にかかってきました。
このとき私の中に湧き上がってきたのは「ふざけるな」という激しい怒りでした。
司祭たちにそれだけの権威を認めてしまうから、司祭があそこまで驕り高ぶるのではないか。あそこまで理不尽な振る舞いをしながら、振り返ることがないのではないか。
司祭を通して(司祭に罪を告白することで)罪を赦される。
司祭を通してパンがキリストの体に変わり、私たちもその恵みを受けることができる。
司祭を通して…、司祭を通して…、司祭を通して…、司祭を通して…。
司祭にこれだけの力があるとされているのは、信者が救われるため。私は子どもの頃から教えられ、信じてきました。
でも本当にその権威は信徒のためなのか。こうした権威があることで威張って、理不尽な振る舞いをゆるされ続けているのが誰なのか…。
私は司祭の権威が神からのものだと信じることができなくなりました。
自分が育ってきていたキリスト教というものについて混乱した状態で、私は結婚式を迎えることになりました。
3.人生の一大事に、宗教者が権威をふりかざすこと
この記事を書きながら驚いたことがあります。
当時の自分はそこまで傷ついたとは思わなかったのに、司祭の理不尽な怒鳴りちらしを思い出しながら涙が出てくるのです。
もう何年もまえのことなのに…。
それは、怒りよりも恐怖の涙です。
こちらの言い分も一切聞かずに怒鳴られつづけ、理不尽なのにひたすら頭を下げつづけなければいけなかったこと自体、苦しい記憶ではあります。
でも、それ以上に私は「この人(司祭)が機嫌を直してくれなければ、私は結婚できないかもしれない」ということが、とても恐ろしかった。
私は今の夫と結婚することで、実家から遠方に引っ越すことが決まっていました。
また、そのために夫と結婚したわけではないけど、結婚して新しい家庭を持てば実家から離れられるということが切実な希望だったことは事実です。
これで司祭から挙式の許可が出なければ、母は結婚を認めてくれず、私は死ぬまで実家から抜け出すことができないのではないという恐怖でパニックになりそうでした。
結婚を控えた人の多くは、当時の私のような事情を抱えているわけではないと思います。
でも人生の節目を許可する権限を宗教者が握っていて、いかようにも権威をふりかざせるという状況がどれだけ残酷なものか…。
知るべき人には知ってほしいど思います。
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