「祈って神に癒されなければ…」と思いつめるのは、ときに苦しい
私は、伝統キリスト教の2世として育ちました。
今でも正直、子どもや家族のことでは神頼みすることはあります。
でも、それがキリスト教の神かどうかは分かりません。キリスト教の神については、分からないまま生きていくことに決めたからです。
私の場合、そのほうが単に気持ちが安定するからなのですが、そのことについては別記事で書く予定です。
(今日の記事は、「祈り」と「病から回復する」ということへの私個人が出した結論にすぎません。
決して今、病などの苦しみに遭って祈っておられる方、また大切な人を思って祈っておられる方のことを否定するものではありません。
ご理解ください。)
1.「祈らなければ心は治らないのではないか」と思いつめていた頃…
ただ、前の記事にも書いたように臨床心理士からトラウマ治療を受けるようになったあとも、
(※その時のことは、下の記事に書きました)
私は自分のメンタルが癒えるようにと、必死に神に祈っていました。
今まで色々書いてきたように、私が所属していた(今も名簿上は所属している)宗派に対しても、神に対しても疑問を持ってきた上に、神が母の暴力から助けてくれたことなんて、一度もなかったにも関わらずです。
それでも私は所属教会の、病に対する考え方にとらわれていました。
私の所属教会は身体の病気については、現代の医療自体を否定していたわけではありません。しかし、精神疾患への偏見が強く、とくに私の母を含めて、精神科の薬を悪者にする人たちもいました。
※私が経験した、教会での精神疾患への偏見をめぐるあれこれは、こちら。
私は所属教会のメンタルへの認識の古さに付き合いきれないものを感じました。
しかし、そんな私も、
「神に祈って、神から癒されなければ、メンタル疾患は治らない」
と思い込んでいました。それは、
「祈らないことで、治らなかったらどうしよう」
という強迫観念に近いものでした。
当時の私がいう「私は神を信じます」「私は祈ります」というのは、
「神がいるのかいないのか分からない。神の存在を否定したり、祈らなかったりした時に、後になって神が存在するとハッキリ分かったら怖いから。神からどんな仕打ちを受けるか分からないから」
という恐れからくるものでした。
また私の所属宗派は、「奇跡で不治の病気が治った」「奇跡で目が見えるようになった」みたいな話を信じていました。
(一応組織のトップは、奇跡の認定には慎重です)
内部では、こうした奇跡が好きな人も、好きではない人もいました。私は母や周りの影響から、こうした物語の影響を受けて育ちました。
そして私もトラウマ治療(心理療法)を受けるのは初めてだったので、心理療法を癒やしのようなものとして誤解していたのもありました。
2.トラウマ治療は「癒し」というより「脳神経の再調整」
トラウマ治療を始めてしばらくして気づきました。
これ、全然癒しじゃない!!!
今のトラウマ治療では、ストレートに言葉にするよりも、クライアントが記憶を思い出すときの辛さが減る方法が開発されています。
それでも思い出す作業は、苦しいです。
また治療をしてみて気づいたのは、トラウマは「心の傷」というより「脳神経の不具合」だということです。トラウマ治療は「心の傷を癒す」というより「脳神経の不具合を再調整する」と考えるほうが近かったのです。
「神の癒し」を否定しているのではありません。
ただ単に私がぼんやり考えていた「心が治る」のイメージと、治療の実際とが合わなかったのです。
私が治療に臨むときに特別祈らなくなったのは、トラウマやその治療のイメージが変わったのもあると思います。
3.「祈らなければ治らない」は、私には苦しかった
病に向き合うとき、祈ることが心の支えになることはあると思います。私だって、いつそんな事態を迎えるかは分かりません。
ただ当時の私の場合は「祈ることでしか治らない」と思い込むことで、治療でも肩にギュッと力が入ってしまっていたと思うのです。
今の私は「トラウマが治った」というよりも、「トラウマの記憶が自分の一部としてしっくり収まるようになってくれた」というほうが正しいです。治癒というより、付き合えるようになったという感じ。
ただ「完全に治さないといけない」と思い込んでいたときよりも、バランスのとれた自分になっていると思います。
私のnoteはトラウマ回復のノウハウを語るものでもなく、こうやったら良くなるよと人様に押し付けるものでもないのですが笑
ただ私が言いたいのは、病と向き合うときに祈ることが苦しいときには、やめてみても良いのかなと思います。
とくに心の病の場合は、そうすることで心がほぐれて、思わぬところから回復の道筋が見えてくることもある。
私はそう感じています。