「正しさ」がもつ加害性とか考える…
Twitterに疲れて、noteに引きこもって数日。
頭の中に浮かんできたことをまとめてみます…。
私自身、メンタルが特別落ちているわけでもないのですが、脳の「宗教2世について考えてきた部分」が起動することを拒否している状態です。
noteにまで来てくださった宗教2世当事者や、当事者じゃないのにTwitterやnoteを読んでくださっていた方々…ネットってこんなに温かい場所だったのかと泣いていました。
今までのnoteは、自分が勝手に始めたことでした。noteだけでなくTwitterでも反応してくださってた方たちがいたからこそ、続けることができたんだなと改めてありがたく思います。
治療のことや、宗教2世として書こうとしてきたことを放り出していなくなるのも、私の性格的にモヤモヤする…。
ただ、今の私は自信がありません。
ここ数ヶ月、Twitter上で今まではスルーできていたことがスルーできなくなりました。
上から目線で教え諭してくるクリスチャンたちにも、宗教2世界隈のあれこれにも…。
最近の私は、まえは冷静に呑み込めていたことが頭に血が上るようになっていました。そんな自分がすごく怖いし、あとで自己嫌悪におちいることは目に見えています。
やはりもうしばらく、noteで隠居生活を送ろうと思います。
(といいつつ、こんな長文を書いている私は難儀な性格だと思います…)
そもそもね…とくに上から目線のクリスチャン、私がただ経験を書いているだけなのに私の「間違い」を正そうとしてくるクリスチャンに我慢する必要なんてなかったはずだと、ここ数ヶ月気づきました。
私はそもそも自分で選ぶこともできず、親の都合で教会に通い、そこで親や聖職者や信徒たちから傷を受けてきた人間なんですよね。その人間にとって、クリスチャンに絡まれることがどれだけ神経を使うのかも想像できない時点で…なのです。
「自分は善良ない側だ」と信じる人たち特有の、「私はイノセント。清らかな存在」みたいな自意識が逆に鈍器になってるなと感じることもありました。
最近はそれを感じた時点でブロックしています…今お付き合いしている方は、宗教関係なく尊敬しています。
でも彼ら彼女らに怒ることを自分に許したところで、所詮はネット…。ブロックしてもイライラは残るし、ネットで戦っても何も得るものはないのも分かる。
結局、相手は「神の愛を離れた罪人を憐れんでやった」と一方的に自己愛を満たして満足し、私だけがモヤモヤの中に取り残されるだけ。
当事者だから呟かないと身が持たないことがあって、呟きはじめる。
それでスッキリしたり、自分の経験を文字にして読むことで、
「ああ、私の生い立ちはおかしかったな」
と改めて自覚することもできた。
宗教2世の当事者と、育ってしまった宗教を超えてつながることができた。
それは、かけがえのないことで…。
でも当事者としてSNSをしているがゆえに被ってしまう泥はどこで払えばいいんだろう。
私はただ、自分の気持ちの整理のためにSNSを使っているのに(悔しさは勿論ありました)、わざわざ泥を浴びに行っているような、
「私、何をやってるんだろうな」
という気持ちになることはありました。
Twitterを離れてみて思うのは、今の私はTwitterであれこれ見ての気持ちの乱高下に、冷静ではいられないだろうということ。
たぶん、だいぶ前から疲れていたんだよね。
それ以外にも2世界隈で見るあれこれ…ネットは(自他の尊厳さえ守れば)自由であるはずが…という部分もありました。
今回、私は柄にもないことをしてしまいました…。正直これで界隈の不透明さがよくなるとも思わないし、無駄なことを私はやったんだろうなとも思います。
ただキリスト教2世という、宗教2世界隈では微妙な立ち位置にいる人間だから言えたことなのかもしれないなと思います。でも、やっぱり自分らしくなかったなと思う。
私は元々、自分を「正しい側」におくのが大嫌いなのです。もちろん生きているからには、自分の正しさを信じないとやっていけないと思います。
でも「私は正しい」と信じ込むことで人が残酷になることを教会で散々見てきたのも事実なんですよね。
でも界隈の一部で、
「自分たちは正しい活動をしているから、意に沿わない相手は攻撃してかまわない」
「自分たちは正しいことをしているのだから、ここは良いだろう」
みたいななんだろうな…せっかく宗教から離れることができたのに、私が宗教に対して苦手だと思っていたことが再現されているのを見るのに、勝手にひとりで疲れてしまったんですよね…。
そしてモヤモヤしているのも嫌になって…と、私の中ではそんな流れだったのです。
と、私の頭のなかにあるのは、今こんな感じです。
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