信仰を「棄てる」んじゃない、選べなかったことを選ぶだけ
1.現夫(ノンクリスチャン)との結婚が決まり、母の暴言がさらに悪化…
母からの妨害といじめは続けども、クリスチャンではない現夫とは結婚の話がまとまっていきました。
(※私は母親がキリスト教1世のいわゆる宗教2世です。母は私にクリスチャン同士で結婚することを強く望んでいました。)
夫よ、君は勇者だ…。
母親の教会での最低限の体面を保つため、私は教会で挙式することにしました。夫にも夫の家族にも頭を下げて…。
一方、私たち夫婦が教会で挙式する原因である母…。夫や向こうの両親に、そのことでお礼を言うことも、すみませんの一言を言うこともありませんでした。
当然のことだと思っていたようです。
それどころか、母は私の結婚がまとまったことが気に入らず、特にきっかけがなくても怒り出し、怒鳴り散らしていました。
(私も迷いがあったとはいえ、結婚式を母に譲っただけでも感謝してほしいよね…)
「〇〇さん(夫)や、あちらの両親がちくわを気にいるなんておかしい。どんな手を使って騙したんだ!〇〇さんには、お前の本性に気づく人間であって欲しかった」
→私がそんなことをできる人間だったら、今頃大成功してるはずだよ(涙)。
「お前はいい人ぶってて鼻につくんだよ。パパが聞くことにあんな風に答えて、不愉快よ!
〇〇さんを騙そうが、あちらのお母さんは気づいてるはずだよ。お前のことなんて、うわあああって思ってるんだよ絶対」
→この頃、父を無視することが母のマイブーム(ありえないですよね…)でした。
「(私の兄弟)が言ってるよ。ちくわの結婚なんて、自分には良いこと何にもないって」
→この頃、私の兄弟は私の悪口を母に吹き込むことで、母の歓心を得ようとしていました。
母の頭の中では「私が夫と夫の家族を騙している」という思い込みが強固なものになっていました。当の私は自分のハードルを上げたくなかったので、良く見せない努力をしていたのですが、母には理解できないことだったと思います。
嫁ぎ先で苦労をした母にとっては、私が向こうの両親から可愛がってもらっていることは受け入れがたかったのでしょう。
2.「結婚したら信仰を棄てるのね」と、しつこく迫る母…
そんな母の暴言のなかでも、一番言われたのは、
「ちくわは結婚したら、信仰を棄てるのね!棄てるのね!」
というものでした。
当時の私は2年以上、自分の信仰とは何なのか、ぐちゃぐちゃした状態が続いていました。
母の脳内では、信仰というのは「信じる/信じる」の2択でしかなく、「信じてる=教会に通う」という外側だけの理解しかなかったのでしょう。
後にキリスト教を相対化しきってしまった私が言うことでもないのでしょうが、「教会に毎週行く」ことだけが信仰ある証ではありません。
心身共に弱りきっている人には、教会のなかでお世辞を言い合ったり、(若輩者はとくに)年配者の長話を書いて相手を肯定してあげる「ケアラー」みたいなことをやったりするのは負担が大きすぎます。
また信じてるにも色々あって、私のように司祭の特別さを信じられないという人間もいれば、私の宗派のようにパンが礼拝の中で本当にキリストの肉体に変わると信じられない人もいます。
私は、自分が納得できていないことに対して礼拝の中で「アーメン」(まことに、確かに、の意味)と唱えることが心苦しかったです。
(そんな気持ちになる義理のない相手とはいえ)教会にいる人たちを騙している気持ちになりました。
外側しかない母にはそんな私の胸中が理解できるはずもありませんでした。
3.信仰を「棄てる」という言い方自体が「信じない自由」を奪ってる
そして、それにしてもです。
「棄てる」って嫌な言葉だなと思いました。
ただ自分がどう生きていきたいかを選ぶだけのことなのに、すごく罪悪感を掻き立てることばです。
そもそも「棄てる」って強い者が弱い者への責任を放棄するときに使う言葉ですよね。
親が子を棄てる、人がペットを棄てる、などなど…。人が教会という権力と支配とを使う存在から離れるときに使うことばとしては相応しくないように思います。
人が無意識のうちの支配から抜け出して、自分の人生を選び取っていくためには、支配してきた側の使うことばをチェックしていくのも一つの方法だと私は思います。
私の中で一番重要だった言葉が「信仰を棄てる」「棄教」という言葉でした。
そもそもね、私は小学生で洗礼を受けることに同意したとは言え、あんな生い立ちでは選択肢なんてないんです。当時の私も、その後の私も、自分が何が好きで何が嫌いな人間が知らずに生きていたのだから。
そんな私が教会に通うことをやめるのは、選ぶことができなかったものを選ぶだけ。どんな人たちと付き合っていきたいかを選ぶだけ。
のちにトラウマ治療でお世話になった臨床心理士の先生が言っていました。
「大人になったら、付き合う人を選べるんですよ」
このときは宗教について話していたわけではないのですが、私は教会コミュニティのことを思い浮かべました。そうだよね、付き合いたいかどうか選ぶだけの話だよね。
そんなことを思ったのを思い出します。
そして2世が教会との付き合いをやめるとき、当時からの大人がかけるべきことばは、神の恵みがとか恩知らずとか信仰がとか、そんなことではなくて…。
「今まで付き合ってくれて、ありがとう」
であってほしいです。
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