虐待被害者は「あなたの罪は赦されました」で救われるのか
1.虐待被害者である私が「あなたの罪は赦されました」と言われて思ったこと
昨日の記事でも書きましたが、私が子どもの頃に通っていた宗派では、罪を犯したら、聖職者に告白しなければいけませんでした。
※私のいた宗派で、当時小学生だった私が「罪」ついてどう学び、どう受け止めたのかは、こちらの記事に書いています。
信者は聖職者に罪を告白したのち、聖職者から助言と償い(何の祈りを何回唱えなさい、みたいなことが多い)を示されます。
そして最後に聖職者から、
「あなたの罪は赦されました。行きなさい。主の平和のうちに」
という言葉で送り出されるのです。
私の母はいつも、このあと晴れやかな顔をしていました。
私も正直、話してすっきりしたという気持ちになることもありました。しかし救われたような気持ちにはならなかったし、心の中にわだかまりのようなものは残りました。
長じるにつれ、「罪を犯すまでに追い詰めた神様だけが、なぜ罪に問われないのだろう」と考えるようになりました。
どうして私だけが一方的に罪人にされないといけないのだという気持ちです。
そして自分の母親について客観的に見ることができるようになったあとは、ますますこの教えに疑問を持つようになりました。
何度かこのnoteにも書いてきましたが、私は幼少期から高校卒業まで暴力を振るわれてきました。
私は母から数えきれないほど、嘘をついたと言って暴力を振るわれ、その度に聖職者への「罪の告白」を強要されてきました。
でも私は嘘をつかざるを得ないほど、毎日虐待で追い詰められていたのだと、今ならはっきり確信して言うことができます。
同じ「嘘をついた」でも、人を騙してお金を巻き上げるような嘘も、私のように母の暴力から逃れようと口をついて出てしまった嘘も、神様の目から見たら同じ罪。
追い詰められた人間が「赦されましたよ」と言葉を掛けられても、何か噛み合わないものが残るのです。
かたや母は、虐待について反省しないまま他の罪を告白して、イエス様に赦されたことになり、
(これどころか、のちに母は子どもを叩くことは罪ではないということばを聖職者から得てしまうのです)
「私は赦された」「私はまた清くなった」と、「救われて」いるのです。
私はこの「罪の告白」で気持ちが安らかになる人がいることを否定はしません。
それでもふと思ってしまうのです。
この一連の、「罪の告白と赦し」は、虐待とはあまり相性がよくないのではないかと…。
虐待加害者だけが楽になる一方で、救われない被害者もいるのではないかと…。
(聖職者には守秘義務があるため、虐待をしている親が罪を告白しても、おそらく通報されることはないのです。
今、少しは変わっていると良いのですが…)
この教えが虐待が悪いことだと思われていなかった頃から続いていることも関係しているのかもしれません。
(宗教の教えの成り立ちに神が関与するのか、私はその答えを持っていません。
ただ私はその時代、その時代の人々の道徳観を色濃く反映しているのは間違いないと考えています。
この罪をめぐる教えについても、宗派のすごく頭の良い人たちが何か考えてくれるかもしれませんね…)
2."That‘s not my fault!"(私の落ち度ではない)と言えるようになるために
私は結婚で実家を離れたのち、カウンセリングで虐待のトラウマと向き合うことになりました。
虐待のカウンセリングに、罪云々という話は出てきません。
対話や最新の治療を組み合わせながら、自分に対するネガティブな思い込みを、「ちょうどいい」ものに修正していきます。
そして過去起きてしまった様々なことに対して、
"That“s not my fault!"
(それは私の落ち度ではない)
と言えるようになるのです。
お気づきの方も多いかと思いますが、このセリフは、マット・デイモンとベン・アフレックが脚本を書いて出演した映画『グッドウィルハンティング/旅立ち』から取りました。
(ベン・アフレックのセクハラ疑惑が報じられたため、紹介しにくいけど本当に好きな映画なんだよな…)
主人公の非行少年、ウィルハンティング(マット・デイモン)が精神分析医(ロビン・ウィリアムズ)から繰り返し、
"That‘s not your fault!"
(それは君の落ち度ではない)
と力強く声をかけられるシーン、私はボロボロ泣きました。
虐待被害者が救われることばがあるとしたら、これだと思うのです。
とはいえトラウマ治療前の私といえば、
「ああ、ごめんなさい。はい、私が悪いです。
私が悪いことにして良いですから、これ以上責めないでください。殴らないでください」
という世界観で生きていました。
この精神状態の人間に、いきなり「あなたは悪くない」と言っても、心のなかには沁みていきません。
トラウマ治療はその心の土を慣らしていく作業でもあるんですよね。
宗教で救われる人もいる。
でも宗教以外で気持ちが楽になる道もある。
その真ん中も、あるのかもしれませんね…。
そんなことを私は言いたいのだと思います。