キリストが復活しなくても、世界はふしぎに満ちていた。
※はじめに…私は「イエス・キリストが復活した」と信じている人たちのことを否定したいわけではありません。ただキリスト教2世として育ち、葛藤の末にキリスト教を離れた人間としては、こういう言い方になってしまいます。
ご理解をお願いします。
さて私はベランダで、なすを育てています。
この夏は、酷暑で花も咲きませんでした。収穫はあきらめていましたが10月半ば、突然豊作モードになりました。おおお、実ってくれてありがとうと幸せな気持ちで暮らしています。
そして今日、水やりをしながら、
「なすってすごいよなあ〜」と感動してしまいました。
肥料はその都度足してきましたが、こんな少しの土からこんなに大きくなって、たくさんなって、考えたら不思議なことだよなあと…。
プランターで育てているからこそ、土の量の少なさを感じやすかったのかもしれません。
なせ私が「感動モード」になったのかは謎ですが…。どういうわけか、私はなすがそうなって育っていく世界を「うん、悪くないよな」と思ったのでした。
そして、本当に意味不明なことに、
「キリストが復活しなくなって、死者がよみがえらなくたって、不思議なことはいっぱいあるんだよ」という気持ちになりました。
なすの成長の不思議に感動したというエピソードは、クリスチャンが経験すれば、
「やはり神様の御わざは素晴らしい」
と感じると思います。もちろん、そう思う人がいても良い。
ただし私にも「信じない自由」があります。
キリストが復活しなくても、処女懐胎なんてなくても、もしかしたらイエス・キリストが実在しなかったとしても、「この世界は最初から、それで十分だったのかもしれない」と納得してしまったんです。
私の場合、所属していた教派(今も名簿に名前はあるかもしれない)が、「ル◯ドの泉」とか「涙を流したマリア像」とか奇跡的な話を多用するところだったのもあり、尚更そういう感想になったのかもしれません。
(ただし、ルルドの泉やマリア像に起きた奇跡みたいな話を、あまり信じていない信徒さんもいました。)
要は「なーんだ、イエス・キリスト、私には最初から必要なかったじゃん」と、不思議と肚に落ちてしまって…。
(必要がある人は、必要でいいんです。でも、私には要らないという自由だってあるんです。大事なことだから二度言いました)
自分が平和ぼけしたことを書いてるなあと思いつつ、今の私は感動しているというよりは「そんなもんかー」と拍子抜けしています。
今日は取り止めのない話でしたが、ここからは【おまけ】の話です。
【おまけ】自信のない人は、野菜を育てるのオススメかも…
私はトラウマ治療がある程度進んだころから、プランターでハーブや野菜を育て始めました。ピーマンなミニトマトなど、育てやすいものばかりです。
自分でお世話した植物が実って、それを収穫するってすっごくいいですよね。達成感があるし、日頃水をやるときも、ちょっとした生きがいがあります。
私には宗教がもたらしてくれる、大きな選民意識や「奇跡物語」よりも、こういう小さい小さいものを地道に集めていくほうが性に合ってると思います。周りへの巻き込み度合いが少ないのもいいですね。
最近調子がよく、身体がよく動くぶん、重たい話を思い出して調子を崩すダメージが大きいので、今後しばらくは時々軽い話を書くことになりそうです。
つぎのnoteでは、こうしてトラウマ治療中から育ててきたハーブを使って、身体のトラウマモードを切り替えていたときの話を書くつもりです。
よかったら、お付き合いください。