「あたたかい文章」とは?
自分ではどうも不思議なんだが、わたしはよく、
「あなたのあたたかい文章が好きです」
と言っていただく。
noteやアメブロで書いている文章もそうだし、こっそりと書いている二次創作の世界でも「あなたの暖かい文体が大好きです」というお言葉をいただくことが多い。
はて、あたたかい文章とはなんだろう?
ーー
わたしは自分自身を、「あたたかい人柄」と思ったことはない。どちらかというと排他的だし、多くの人と関わることも煩わしくて好きではない。
あたたかい人柄、と聞くとどうしても、
・いつも友人や仲間に囲まれて
・人の困りごとにも手を貸して
・見返りを求めず親切にする
そんな人間像が浮かんでくる。
わたしはそのどれにも当てはまっていないし、「あたたかい人間=あたたかい文章が書ける」という方式はどうやら当てはまらないように思う。
それとも自分ではそう感じていないだけで、あったかい部分もあるんだろうか?そりゃもちろん多少は持ち合わせていると思うが、暗い部分、冷たい部分も多く持っているから割合としては少ない気がする。
ではなぜ、わたしの文章は「あたたかい」と言ってもらえるのか?
もちろん嬉しい。めっちゃ嬉しい。自分では意図して書いていないし、自然と滲み出ているのなら、「あたたかさ」が自分の中に備わっているのかも…なんて期待してしまう。
反対に、わたしが他の方の文章を読んで「あたたかい」と感じるときはどんな時か考えてみる。
うーん‥‥
うーん…
結局、言葉のチョイスではない気がする。
例えば、「愛」「感謝」「絆」「仲間」そんな言葉をやたらめったら盛り込んでいても、読んでいて全くあたたかみを感じない文章は山ほどある。
専門用語だらけで、難しい社会問題を論じているような文章でも、「なぜかこの方の文章はあたたかいな、優しいな」と感じることも多くある。
ーーー
では一体何が「あたたかさ」につながっているんだろう?
それは、その人がどんな目線でその出来事や世の中を見ているか…。その視点や心持ちみたいなものなんじゃないか。
抽象的だしあまり使いたくないけれど、「愛」を持ってそのことを見ているか。それが自然と文章の中に滲みだして、「あたたかい」文章へ仕上がっている。
もちろんそこには、「言葉のチョイス」も含まれるだろうけど、いくら聞こえのいい言葉を多用しても、あたたかさは作り出せない。
じゃあ結局、わたしの文章の「あたたかさ」はどこから来ているのか?こればかりは客観的に分析しにくくはっきりとわからないけど…。
「みんな幸せになってほしい。」
割といつも、そう思っている。多分。
こういうエッセイはあまり意識していないけど、小説を書く時は割と意識している。いくらきれいごとと言われようが、最終的にはみんな幸せになってほしいのだ。
それは現実の世界でも同じ。自分自身が生きることに不器用で、回り道、遠回りの連続だ。そんな人生を歩いていると、時々ふっと出会う「愛に溢れる人」に救われる。
それでいいやん、回り道してもいいやん。
大人だから、女だから、こうあるべき。そんな型に嵌らなくていいんだよ、と教えてくれる人たち。
わたしはきっと、そんな人になりたいのだ。
今はまだ、自分がもがいているから受け取ることで精いっぱいだけど。
「そのままでいいやん」「それでいいやん」
「どんなあなたでもオッケーやん!」
そう胸を張っていつか言いたい。胸の中にはいつもそれがある。口には出ていなくても。
わたしの「あたたかさ」は、もしかしたらそこから生まれているのかもしれない。これからも、意図せず「あたたかい」文章を書ける人間でいたいと願う。
イトウカヌレ