*「ホムペ」を思い出してセンチメンタルに
高校生の時、「ホムペ」と呼ばれるものをやっていた。いわゆる個人のホームページだ。
部活仲間でひとつの「ホムペ」を作ってて、メンバー紹介かのように名前を並べ、そこから個人のページに飛べるようにリンクを貼ってた。
テンプレートみたいなのがあって、素人でも簡単に作ることができた。
今で言う“X”のように「リアルタイム」を投稿したり、instagramのように「写真ライブラリ」を投稿したり、ブログやそれこそこのnoteみたいに「日記」を投稿したりしていた。
流行りに乗っかってきっと全部活動の「ホムペ」が存在していたんじゃないかな。クラスメイトがどの部活に所属しているのかとか、「ホムペ」でその人のことを知る、みたいなこともあった。
そんなことを最近ふと思い出して気づいた。今とやってること変わらないなぁと。私はその頃から自己満足で更新を続けていた。そのスタンスが今もずっと続いてるんだろうな。
今、SNSと呼ばれ多くのユーザーに利用されてるものがその「ホムペ」には集約されていたのでは?と思う。違う機能としては、「いいね」や「スキ」など、リアクション機能が「ホムペ」にはなかったことかな。コメント機能はあったけどね。あとはフォローしたりされたりもなかったし、ハッシュタグもなかった。
なぜか足跡機能があって、誰が覗いてるかは見れたのよね(ケータイの機種で判断できたんだっけかな?)。あと、パスワードを入力しないと見れない投稿とかもできて、部分的な鍵アカみたいな?
私の場合は部活内でパスワードを共有してたなぁ。懐かしい。
ただ、そんな「ホムペ」も今流行ってるSNSの普及に伴ってだんだんと利用しなくなって、ついには誰も更新しなくなってたのよ。
それは結局のところ、「ホムペ」を交流の場として利用していたんだと思う。自己満足と言いつつも、見る人が減って、更新する人が減って、交流がなくなっていったら、いつの間にか自分も投稿しなくなってた。
一方で、Twitter界隈が賑やかになってて、みんながそっちに移動してった。そっちではまた盛んに交流がされてた。つまりは交流の場が変わっただけ。
これって自然の摂理なのかな。
SNSと呼ばれるものたちも結局は流行り廃りでいろいろ変化してってる。これから何十年先も同じアプリを利用してるかなんてわからない。それは全然構わないし、その都度順応していきたいと思ってるし、今まではそうしてきた。
ただね、このnoteで出会った人たちはリアルでは知らない人たちばかりなのね。それでもし、このnoteという交流の場が失われてしまったら、きっともう出会えないのでは?と思う。今までは見知った人たちの中で見知った人たちと一緒に移動してたけど、一度お別れしてしまったら、次の交流の場でも会える保証はどこにもない。それも自然の摂理と言われたら仕方ないけど、やっぱり寂しい。
出会いと別れの季節だからか、なんだかちょっとセンチメンタル気味みたい。
noteも自己満足ではあるけれど、交流の場として求めている部分もある。私はいつまでココに居続けるのだろうか。離れる時が来るのだろうか。新しい人に出会ったり、好きな人に旅立たれたり、それはリアルな世界と同じなんだろうね。
離れたくない人とは、自分から手を繋ぎにいかないとね。