思考の便秘
最近、便秘気味だ。
というのは、腸の働きではなく、脳みその方だ。
つい筆がとまる。打ち込む文字がかき消される。
もっと身体を動かすべきだろうか。もっと物事を見るべきだろうか。
脳の便秘はおそらく他人との会話、意見を吐き出すことによって解消する。
ヤブ医者が言うのだから、間違いないだろう。
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感情に任せた執筆に価値はあるだろうか?
その価値を決めるのは金と時間を持て余している人に任せる。
そんなことをしても無駄だと言う人もいる。
何気ない経験や会話は少なからず、意味がある。
無駄なことも多いが、無駄だと感じられる感性もまた意味がある。
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重苦しく本心を話せるような、張り詰めた空気が好きだ。
まったくもって本心で話せることは滅多にないだろうが、他人の演技と自分の演技がうまく噛み合っている瞬間は、即興劇を成功させたかのような心持ちになる。
正直、生きている気がする。
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他人の考えていることを聞くと、そんな考えがあるのかと感心すると同時に、自分とは違う人間がいることに、また自分が特別なのだと思えてくる。
他人と比べて自分は駄目だと言う奴もいるが、そんなことは当然だ。だめな部分は誰にでもある。
そして、駄目な人間はごまんといる。駄目自慢をしている方が競争率が高い。
嘘でも自分は変わり者だ、世間離れしている、協調性がないといった言葉を、個性的と捉えることができたら……
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崇高な行動原理を数パターン傾聴したが、あいにく私にはそれほど素晴らしいものはない。
それを話してしまいたい心持ちもあったが、そこまで心を許していいのかわからない。
おそらく聞いてはくれるだろうが。
そのもどかしさを楽しんでいる部分もある。
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「君みたいな人は他にもいる」
その一言に安心すると同時に、
私は特別ではなかったのだろうかと、劣等感を覚える。
とんだ天邪鬼だ。
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私はずるいもので、その考えを示さなかった。
けれども、それは「あなたってこういう人間なんじゃない」と言われたかったからかもしれない。
どんな結果であれ評価されたかったのかもしれない。
仮にその人物像が私の理想や想像しているものでなかったとしても、そう見える私は私の一部として存在しているのだから、愛してやまないのだと思う。
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して、私は大人の厨二病だと診断された。
薄々そうだろうなとおもいつつ、間違っちゃいないと認めてしまう。自己診断は十分にできているが、改めて診断されると恥ずかしいもので。
物事が美しく意味のあるようにするために、考え方を変えようとしていることが、そのように診断されるのだとしたら、
この病には一生悩まされてもいいかもしれない。