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性別という概念

もし、私達が生まれるときに性別を選べる生物だったら。

そんなことを考えるのは人間くらいなもので、他の生き物たちはきっとそんなことは考えずに、繁殖を繰り返すに違いない。

女王アリや女王バチのように生まれながらにして役割を与えられた生き物はそれになんの疑問も抱かず従っている。

そもそも疑問を抱く事自体がありえない。

やっぱり性に関して考えるのは人間だけのようで、とりわけその性について強く意識をするのは、やはり他人の存在が大きい。

男らしさとか女らしさという概念は古臭い考えでもあるが、時と場合によっては必要な部分でもある。けれどもそれは強要することではない。自意識の中だけで完結するに越したことはない。

けれども、それを吐露することで、

「そこまで重く受け止める必要はない」

「こういう考え方もあるよ」

という言葉が得られたりするかもしれない。

思い込みが解消されるかもしれない。

その点でLGBTQの概念は存在するべきだし、理解を広める活動はするべきだと私は思う。

愛嬌があって愛される男性もいれば、

度胸があってリーダーを務める女性もいる。

ただ、そういう人もいるよというだけの話。

だれもがそうなれと言う必要はない。本人の生き方の結果が他人の目にそう見えるだけ。

「度胸がなくて男らしくない」

「愛嬌がなくて女らしくない」

こうした物の見方をする人がいる。でもそれは視力が悪いとか、聴力が低い、運動が苦手、会話が苦手、服の好み、味の好み、絵が下手、滑舌が悪いといった特徴と似ている。

ある意味で、人はこうあるべきという強い思考を持っている。

年配の方に多い傾向だが、少なからずその考え方で生きてきたのだから、その考えをまるっきり否定するのは人生の否定になる。それは誰であってもしてはいけない。

だから、言わせておけばいいし、言わせてあげるくらいでいいのだと思う。

この人の理想はそういう人なんだなと。

その上で私はこうなんだよね。と心の中で今一度確認すればいいと思う。さらにいえば、その人の考えの一部をいい意味で取り入れられたらこっちが得をする。相手はそれ以上何も新しいことを取り入れようとしていない分、こっちにはまだ成長の余地があるからだ。

で、私が問題視しているのは、権利を主張する側の人間が、理解できない人間を攻撃するということ。

理解されないのは確かに辛い。

でも、理解できない人間を攻撃するのは、自分たちがされていることを仕返ししているのと変わりない。

一方的に殴られているならわかる。

でも、殴り合いの喧嘩なら誰も止めやしない。

関わりたくない、巻き込まれたくないからだ。

権利の主張は大切だが、強要はしちゃいけない。

男から女へのハラスメントもあれば、

女から男へのハラスメントもある。

男から男もある。女から女もある。

男が女の乙女心や本心をわからないように

女も男のつまらないプライドがわからない。

同性愛者の気持ちが本当にわかるのはおそらく同性愛者だけだし、仮に同性愛者どうしでも理解しあえない点があるだろうから、そうでない人から理解されないのは自然なことなのだと思う。

心と身体が一致しない悩みがある人もいる。

一致していても悩みはある。

なんであれ悩みはある。

「私だけが世間と違う感じがする」と悩むのは誰にだってありえる。誰しもが自分とは違う他人に悩む。

少数派の悩みもあれば、大多数派の悩みもある。

一番良くないのが、

自分だけが辛くて、他人がのうのうと生きていると思いこむこと。

自分の苦しみが解消されることだけを考えて、

他人の気持ちを考えないこと。

性別云々を語る前に一人の人間としてまず大切にしたい。

理解できないものを批難するのではなくて、

「そういう人もいるんだな」と思えるようになれたらいいと私は考える。

そして「理解されないこともある」ことを理解しておきたい。

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魚亭ペン太(そのうち公開)
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