短編『何も気にならなくなる薬』その203
老人ホーム
指紋認証
加害者
他の場所よりも薄暗い廊下に足音が響く。
足取りが遅いためかその音は不気味さをよりいっそう引き立てている。
お仕置き部屋と呼ばれるその場所は、老人ホーム内で問題を起こした加害者が連れて行かれる部屋だ。
もちろんそんな物は老人ホームのパンフレットには載っていない。
そんなものが載っていたら誰もそこに預けようとは思わないだろう。
薄暗い廊下の先からひたすらに謝る声が響く。
「私はこんなところはもう居たくない」
「でも、帰るところなんかないだろう」
「そうだよ、居場所がないからこうしてここに居るのだから」
不満を漏らした男性は萎むように黙りこくった。
そんなことは誰もがわかっている。
なぜ自分がこんなところにいるのか。各々の事情は違えど居場所のないことは明らかだった。
「ここから抜け出せないか」
「それこそ見つかったらおしおき部屋だ」
「それに、抜け出したところでどうやって生活するんだ」
「違う、ただ抜け出すんじゃない。私達が抜け出して、この老人ホームの異常さを世間に伝える。そうすれば世の中が私達を助けてくれる」
「そう上手く行くのだろうか」
有志数人が食堂へ足を運ぶ時間を利用して他の場所を探りつつ、それらしき扉を見つけるも開く気配がない。
「これは普通の鍵じゃないのか」
「あれだ、指を当てるやつ」
「映画で見た」
「指紋認証だよ、やっぱり出るのは難しい」
「ここを出入り出来るのは誰だったかな」
「確か、田中だ」
「あの女性か、なら考えはある。食堂にいこう」
男性達は食堂の列に並び、トレイに空の御椀を並べる。
「御椀に触れるなよ」
「どうして」
「そのうち分かる」
スープのよそられた御椀をトレイに乗せて、テーブルにつく。
「ここにこうセロハンテープを貼り付ける。すると指紋が浮き彫りになる」
「はー、すごいことを知っているな」
「映画でやっていた」
「それをどうするんだ」
「次に掃除用具に薬品があるだろう。あれで指先の指紋をなくしてこのセロハンテープをつければ開けられる」
結果、扉は開いた。
いや、私の方から開くようにした。
しかしすぐに係の者が駆けつけるのは明白だ。
普通に考えれば館内はすべて監視カメラで見張られているのだ。
しかし、あの老人たちが何かをしようとしているのは見ている側としては面白い。
つい野放しにしてしまう。
どうせ逃げ出しても変わらない。施設の外に出ても私達の管轄なのだから。
この世の殆どが老人になってしまった。一々施設に入れる必要もない。
この国そのものが施設の用なものなのだから。
美味しいご飯を食べます。