なぜこの世に必要とされない人は死を求めるのか。
はなはだ疑問である。
そもそもこの世に必要とされていないのであればなんだってできるではないか。誰の目にも触れられないのであればなんだってできる。一度死を見たネズミは猫に噛みつけるらしいが、人間だって同じだ。しかし、この世に必要とされていない人たちは考え方の方向性が、死を求めており、難癖をつけて死のうとする。
この世に必要とされていないのは理解できる。ただだからといって必要とされていないことと、死ぬことは全く関係のない話だ。この世に本当に必要とされていないのであれば犯罪を犯して自己陶酔しても、白黒はっきりしないような手口で弱者から金をむしることもできる。この世に必要とされていないのであれば、必要とされようと努力し、栄光、栄華、栄達を極めることだってできる。それなのにこの世から必要とされないと周りに愚痴を垂れている人たちは、必要とされていないのに、もともと自分は必要とされている人間だと言わんばかりに死のうとする。
自分自身躁鬱の身で、鬱状態も経験したことはある。何もやる気もおきず怠惰な生活を送る。ただ、周りに必要とされていないのにもかかわらず周りの目を気にしている。本当は必要とされていないのではなくて、必要としてほしいんだろう。そしてそれに応えられるよう、勉強し、努力し、自分を磨き、誰にも褒められないのだろう。気持ちはよくわかる。
基本的に鬱は思考の癖だ。何か理由を付けて死にたがるのだが、お前を必要としている人間なんざごまんといる。そもそも経済学的に考えてみれば、神の見えざる手のなかで生きている。お前の悪口を言う人間は悪口を言うためにお前を必要としている。お前の飯を作ってくれる人間は、飯を作るために必要としている。そもそも、本当に必要とされていない人間は、物理的に存在できない。お前は死にたがっているだけだ。なぜ死にたいのか。そこに、お前が必要としている物の答えがあると思う。
躁はまた別問題だ。持病だからわかるが、ドーパミンを求めて生活の軸が決まる。性欲が増し、知的興奮を求めて考え事も捗る。酒、たばこ、ドーパミンが脳で出ている感覚まで感じるようになる。まあこの話はまた別の機会に。とりあえず、躁鬱は、非定型抗精神病薬でも飲んだほうが良い。