多様性についての返信についての愚痴と相場の経験からポジショントークについてのとらえ方。
前に書いたコメントがたまっていたので返信します。もうこれ以降返信しないのであしからず。そのあとに返信してくださった修さんには先の記事で返信したのでお目に留まったらご覧ください。返信は遅くなるかもしれませんが。
本題ですが、そもそも私は斜陽する国を憂いて焦燥感に駆られ政治の声を有象無象のネットの海に喋りたいわけではありません。そもそも挙げたのはあくまでも例です。私はもっと皆さんの哲学を聞きたい。政治には興味はありません。ポジションも取りません。どうでもいいんです。時間を取られたくない。ネトウヨが、とかパヨクが、とか勝手にやっていてください。あくまでネトウヨを例に挙げただけでやってることは右も左も一緒です。ただそれに対面を例に挙げて反対側の揚げ足をとって、あっちもやってるじゃないか?あほらしい。人のふり見てわが振り直せよ。22の若造に言われることじゃないだろ。対面なんか関係ねえんだよ。お前も同じことやってるんだからまず直せ。こんなことを書くために時間を使いたくないんだわ。
これで書き終わると後味が悪いので日夜相場で丁半博打に興じているのでついでに、ポジショントークについて思うことを書きたいと思います。基本的に人間は意識的か、無意識的にポジションを持っていると思います。これは何も裏打ちのない経験論ですが、相場で例えるのであれば、取引する前にポジションは決まっているのです。実際に売買するときとはプロセスが少し違いますのでたとえ話だと思って聞いてほしいです。
相場にはすべて相場が正しいという前提があります。もちろん、相場に正解はないので相場は常に間違えているという人もいます。ですが、それもある種同じなのです。言い換えれば相場は常に間違えている、その状態が正しいといっているだけで、正当性の違いです。そしてある人が上がると思いある会社の株式を買いました。ですが、よく人間を観察しているとその人は無意識的に買いたいから買っているんです。相場は相場が正しいという前提を知っていながら自己都合で買いたいから買うんです。相場では勝ち組と負け組と呼ばれる人たちがいます。それぞれの負け方を観察すると基本的に負ける原因は自己都合で買うから負けています。勝ち組の上手い人でも自己都合で買う場面を見るとほとんどの確率で負けています。ただ、この話をしている私でさえ負けているときは自己都合なんです。わかっていても自己都合で負けるんです。
そのくらい人間は無意識の自己都合に感情を支配されています。一般的に相場で語られても共感できないかもしれません。しかし感情のポジショントークというのは日常でも変わらないんです。もう一つ例えるならば芸能人のスキャンダルが身近でしょうか。ある芸能人が炎上したとします。報道されるまでちやほやされていた芸能人。その日を境に世間が一緒になって叩きはじめます。よくある光景です。中には同じような報道にもかかわらず問題になるどころか全く無問題であったり、芸の肥やしだといわれたりする人もいます。これこそが無意識にある自己都合なんです。芸能人はイメージの切り売りだと思います。そのイメージとの不快なギャップ、心地の良いギャップ。このイメージ、つまり無意識にある自己都合が、心地よければ叩かれず拒絶されれば叩かれる。相場でも同じです。値動きが心地よければ買い、値動きが不快であれば売る。人間はポジションを取ろうとするときにもうポジションを取っているのです。
この手の例えはいくらでもできます。もっと身近に考えれば親友からの相談なんかはどうでしょうか。友人はどうすればいいのかを尋ねてきます。ただ友人の中ではもう答えは決まっているのです。後は背中を押してほしいだけ、私はそういったのが行為自体がめんどくさいので極力人の相談には乗りたくないのですが親友の頼みなら断れません。友人はもう両思いだということを知っておりながらそれを隠し、わからないふりをしてどうすればいいのか聞いてきます。
政治だとどうでしょうか。もう自分のこの政策についてのポジションは決まっているのです。後は周りの反応を見て完全な反対意見が出ると対面に向かって暴言を浴びせます。わが身を振り返らず揚げ足を取り罵るのです。それは不快なギャップであるから。だから私は政治に興味がない。
ここで多様性の出番です。多様性を認めることとはある意味諦めだと思います。政治でこの政策は好き、この政策は嫌い。これがポジションです。政策はいわば軸であり環境要因でもあります。ある一つの政策の環境要因がありその軸の対面で真逆の答えを出すグループがありますね。ネトウヨ、パヨクがいい例です。その答えに正解はないんです。正解がないから自分が正しいのだと言い張れることができる。相場でも同じです。値動きには正解がない。ランダムに予測不能の動きをする。芸能人のスキャンダルだって同じです。不倫をしたところで不倫がいいことなのか、悪いことなのか絶対的な答えは個人の中にはありますが正解はない。好き嫌いに正解がないのはお判りでしょう。それと同じで相対的な世界、二元的な世界には答えはない。唯一絶対的な答えがあるとすれば正解はないという答えなんです。そして正解がないということは他を認めることしか平和的な解決はできない。それこそが多様性だと思うのです。
ただ、多様性も万能ではありません。多様性を認めるということは逆説的に個人を不可侵にして積極的な不寛容をしているに過ぎない。ポジションを自主的に取らないということです。多様であるか単一であるか。それもまた相対の世界の中の話で答えはないのです。