あるカーデザイナーのクルマ選び051
自分でもビックリの50投稿です!
投稿も最終コーナーにさしかかってきました。
次回からは日本に戻ってからのお話になります。
アメリカでの生活が5年、その後2年日本に戻って、その次はイタリアとイギリスに4年。
この11年間は、本当に変化が大きくて、あっという間に過ぎた感じがします。
全て、家族を伴っての大移動で、特に子供たちは小学校から中学、上の娘は高校までを海外生活だったので、妻も含め、いろいろ苦労もあったのだと思います。
反面、なかなか普通ではできない経験をさせてもらえたのも事実で、会社のサポートにも感謝しています。
息子は、イタリア行きが決まった途端に、私が勉強し始めたイタリア語のCDを真似て、「ボンジョールノ」と巻き舌の練習が始まり、子供の下は柔らかいので、私にやる気をなくさせていました。
一方、ちょうど中学受験を終えて、入学式も終え、やっと教科書をもらって来た娘は、イタリア行きを聞くなり「パパの会社の社長は何ていう名前?」と聞かれ、「何で?」と聞くと、抗議の手紙を書くというのでした。
ここは、ちゃんと親として向き合う時かなと、その日は半日休んで、会社がやっていること、自分の仕事や役割などをしっかり説明し、何とか抗議文には至らず収まったこともありました。
娘はアメリカで小学校に入学した時にも、最初は泣きながら教室に入って行っていましたし。でも、今では、半分以上外人のようで、時々変な日本語を話しているのですからね。
子供たちが欧州で通っていたのは、アメリカ系のインタナショナルスクールだったので、そこには本当にいろんな国籍やバックグラウンドの子供たちがいました。
息子がイタリアでの登校初日に覚えてきたのは、イタリア語ではなく、アラビア語での自分の名前の書き方でしたし、新宿生まれで母国に一度も住んだことのないアメリカ人に、うちの息子がアメリカのことを説明しているし、逆に、日本での生活経験の短い息子に、その子が東京のことを教えていることもありました。
そんな子たちはやはり、親の仕事の都合で、また違う国に行くようでした。勿論、平和ではない国にいる子供もいたりするので、インターネットでやり取りしてる時に、「今、ミサイル飛んでるよ」ということもあったようです。
姉弟共に「南極大陸以外の全大陸に友達はいる」と言っているのを聞いて、インイターナショナルってそういうことなんだな、と感心したことがありました。
そして、欧州から日本に戻った時には、娘は大学受験を控えるようなタイミングだったので、日本でもインターナショナルスクールに行き、大学もアメリカを選び、無事卒業してくれました。
息子には、少しは日本の教育も経験してもらいたいのと、流石に中学からインターでは先々に海外の学校に行くと言われた時には家計も厳しいし、既に私立受験には間に合わないタイミングだったので、帰国子女サポートのある公立中学に入学となりました。
いきなり、詰め襟の学生服を着せられ、「靴下や下着は何故白でないといけないのか?意味がわからない!」と責められ、こちらもしどろもどろになりながら、登校拒否になりそうなところを いろんな人の出会いで助けられ、英語を活かせる都立高校を経て、何とか日本の大学生になりました。相変わらず好きな事を拘ってやっているので、卒業までは時間かかりそうですけど。
まあ、二人共ちょっと普通ではない日本人として成人はしましたが、まあ、これからの時代はそれくらいでもいいのでないかと楽観視しています。
と、クルマに直接は関係ない箸休め話でしたが、いつも我が家のクルマの“リア席パッセンジャー”だった人の話ということでご勘弁ください。
つづく