2024年7月
信頼の獲得
信頼を獲得するという言い方があるけれど、このことは一般的な意味とは逆方向の信頼についても言えると最近よく思う。要するに、自分が他者を信頼するということにおいても、自ら獲得しに行くような部分はあるよなということ。むしろこの方向において、より"獲得"しに行かなければならないのかもしれない。
僕はもともと猜疑心の強い方だったように思う。人を見たら泥棒と思えという考え方は、誰かに教えられたのかあるいは勝手に育んでいったのか、いつのまにか自然にやるようになって、例えば荷物を置いたまま席を離れるなんてことも「それはやるべきではない」という信号が内側から発されて強い抵抗を感じる。こういうのは基本的な防犯意識として今でもそう間違ってないとは思うんだけど、人によっては全くこういう作りになっていなく、その違いを目撃するにつけちょっとしたショックを受ける。
他人を信頼するということについて今でも覚えている出来事がある。小学生の頃、仲の良い幼馴染ととある遊びをやった。一人が目を閉じながら歩く。もう一人が言葉でガイドする。そのまま真っすぐ進んでとか、少し左に電柱があるから気を付けてといった具合に。目を閉じる役が幼馴染のとき、僕の言葉をとてもよく信じてズカズカ歩いてくれた。それに対して、こちらが目を閉じる役のとき、僕はどうしてもそういう風に信頼し切ることができずに、何かにぶつかるのが怖くて全然うまくできなかった。このことが今でも引きずるぐらいショッキングで、情けないやら相手に申し訳ないやら、自分の小ささが心底嫌になってしまった。
以下、山岸俊男という社会心理学者の著書「安心社会から信頼社会へ」を要約した文章がネット上にあったので抜粋。
安心と信頼という言葉は異なる。社会的不確実性のない状況の中で相手が妙なことをしないと信じることが安心。社会的不確実性のある中で、それでも相手の人格や行動の特性を信じて自らの体重を預けるようなものが信頼。
端的に言えば、裏切り者自身も損をする状態というのは社会的不確実性のない状況。日本古来の村社会の、相互監視をしたり、集団を構成するメンバーの同質性を高めたりといったものは、社会的不確実性を低減していくもの。この場合に相手の行動を信じるのは安心のほう。
他者を信頼する性向の高い者ほど騙されにくく、他者の行動を予測する精度が高いという実験結果。一般的なイメージとは逆だけど、説明を聞いてみるとわりと納得できる。
現代の風潮としての皮肉と冷笑というのはやっぱりあまり健康的でないよなと思う。そういうスタンスは、騙された人、失敗した人を指差して笑うというもので、「自分は騙されないぞ」「損をしないぞ」というカチコチの身構えの裏返しである。そもそもこの実験によると、そういう人はより騙されやすく、人を見抜く能力が低い。本人の幸福のためにも良くないし、より客観的な評価としての"能力"も低い。
「信頼を獲得する」ということは、自分から他者へ向くものでこそ重要であり、主体的に獲得しに行くものであると思う。信頼を受ける側が頑張って、それを信頼する側が上からジャッジするような構造だと思ってはいけない。
真夏の生命の反射
この季節の昼間の光景にはすごいものがあると感じる。太陽の強すぎる光を受け、全てのものが生命を照り返している。民家の屋根といった生物でないものも同じく、生命を存在を、ギラギラと照り返す。
そういう風景だけでも、夏という季節が僕は昔から好きだった。植物がグロいほど貪欲に生長することとか、外に出た瞬間のモワッとした外気に命の危機を感じることとか、クーラーの涼しさが救いみたいに思えることとか、動物もしんどそうにしてることとか、夏のイベントってことごとく性欲の臭いがして気持ち悪いよなってこととか、そういうのが全部素晴らしいな!
人間の渦
人間関係というのは渦だと思う。深入りすると、暴力的なまでに強い力に翻弄され巻き込まれ、コントロールを失ってしまう。しかしそれだからこそ面白いというのももちろんあって、人間関係というもの全般にどの程度参加していくかという問題は難しいよなと考えている。一方、こんなことを考えずに済む人のほうがよっぽど幸福になる才能があるし、健康的でうらやましいとも思う。
"人間関係"の以前に、僕は自分の中にすでに大渦を抱えているタイプの人間だと思う。僕に限らず人間はそれぞれに渦を抱えていて、この渦を持ち寄った結果、共振的にとんでもなくクソでかい渦が発生するというのが人間関係にはよく起こる。
自分と同じ大渦を抱えているタイプを見ると、おおそちらも大変そうですねと秘かに思ってる。あなた方はどうしていますか。渦をうまく利用するか、いなす方法を模索するか、どうにか良いところに行き着けたらいいものだ。
ブランドンのミューズィィッ
たまたま見つけた動画で思うところがあったので書く。↑のものは1分ちょいなので試しに見てみてほしいんだけど、このブランドンという男の"music"の発音に僕が外国人に感じていたものが詰まっているように思えた。ノリノリで話す中で「ミューズィィッ」と言っている。
外国人、特に英語話者の話し方を見ていると、「僕は魅力的です!さあ仲良くなりましょう!」というものに見えて仕方がない。これって日本人のコミュニケーションとか言葉を操ることとかに対するスタンスと全然違うんじゃないかと思う。根本的なレベルで、そういったものへのスタンスがまるで違う。「僕は魅力的です!さあ仲良くなりましょう!」はちょっと日本人のそれとは距離がある。個人的にはこういうスタンスに否定的ではなくて、心を開くということにかけて、根本的な部分から彼らには学ぶべきところがあるように思う。感情を素直に裸にしてみせてしまう愛らしさとか、ちょっと日本人には難しい。…などといった昔から感じていたことが、何故だか「ミューズィィッ」に凝縮されているように思われて、ハッとしてしまった。
このチャンネルは、映像を見て反応するといういわゆる「外国人のリアクション」系のチャンネルであることとか、チャンネル名が「ブランドンさん」なこととか、エンディングでサザエさんを使っていることとか、ちょっとずつイラッとするところはあるけれど、まあ全体として好感の持てる奴なんでなんだか悔しい気持ちになった。
不知火フレアの『アトリエ』
例によってホロライブの話。↑のアトリエという曲が、ホロライブのオリジナルソングの中で何だかんだで一番好きかもしれない。
フレアは歌の上手さに定評があるんだけど、特にこの曲が素晴らしいと思う。一度火のついた想いにどうしても突き動かされてしまうこと、その高揚感、ひとつのものへ向かう全身的な在り方、置いていくアトリエへの愛着、アトリエへ必ずいつか戻ること、ぼくのアトリエ!全部全部を表現して溢れ出ている。情感を込めて歌うことができる人は本当に素敵だ。
最近読んだ本に「月を見て泪する人の泪する理由、月を見る前よりある也。」という一節があった。アトリエを聞いているとこの一節を思い出す。この曲を聞いて美しいと思う人は、これより以前にその理由を持っている。
再生数は現時点で20万弱。ホロライブにしては全然伸びていない。こんなに良い曲なんだからもうちょっと…と思うけど、そういう気持ちって仕方ないって思うしかないのかよ!
↓がっちょの唐揚げもどうぞ↓
博衣こよりの『WAO!!』
続けてホロライブの話。博衣こよりは格好いい。一言でいえば、生命力とサービス精神の人かなと思う。それらをもってして大量の配信をはじめとする精力的な活動をしている。新人だった頃はあまりにも配信をやりすぎて、「アーカイブの消化が追い付かないからファンをやめる」という人まで居たらしい。
とにかく精力的すぎる活動量で話題性があったこよりだけど、MCのうまさが判明したりとか、最近ではゲーム実況や雑談の面白さも目に見えて高まってきていて、活動量だけでなく実力としてもホロライブを支える存在になっている。
そんなこよりのデビュー曲の『WAO!!』がこよりにピッタリで本当に格好よくて、聞いていて涙が出そうになることがある。
結局こういう生命力が最も格好いいよなと思う。僕は自分を拡大していくことは生きる大きな喜びの一つだと思ってるんだけど、こより的な自己の拡大の営みというのが表現された歌詞で素敵だ。失敗しながら成長を志向するのも、たくさんの人に好きになってもらおうとするのも、自己を拡大すること。
こより的な人間賛歌とVtuber愛がポップに歌われていて良い!
デビュー曲でこんなこと歌うのたまらんけど、遠い未来を思ったときに悲しい気持ちになる!
こよりだなー!結局こういう人を応援したくなっちゃうんだよな。
こよりみたいな人がホロライブに入れたこと、存分に活動できていること、よかったねと思うし、よかったなと思う。
ビートルズ
最近はよくビートルズを聞いている。ビートルズの曲は、人間のリズム感を直接揺さぶり、呼び起こし、共振を誘うものだと感じる。リズム感へタッチすることに関してごまかしをせずに剥き出しでやってるように見えて、そしてそれを上手くやっていて心地いい。
人間のリズム感(音楽に限らない全般的な生命のリズムみたいな)って、老いや考え方の変化、その時の気分などによって変わっていくと思うんだけど、最近は↑の曲が特にハマるなあと感じる。
これは昔から良いなと思ってる。聞き心地がとてもいい。
イエローサブマリンが一番好きかもしれない。メンバーで一番歌がヘタなリンゴ・スターがリードボーカルを務めた唯一のシングル曲らしい。そのまぬけな背景もいい。この間、部屋のスピーカーでビートルズをランダム再生したまま風呂入って、上がって部屋に戻ったら最初に流れたのがイエローサブマリンで、クソさっぱりして気持ちよかった!
小粒いろいろ
・コンフォートゾーンという心理学用語があって、ここを抜け出すのは人としての成長のために大切ですよと言われてるんだけど、成長のことだけでなく、もっと短期的な幸福感にも関係していると思う。快適さに長時間浸かり続けるのは逆に幸福を阻害する。
・目が見えなくなってしまうことが子供の頃から怖かった。五感の中で何が使えなくなると不便かって言ったら視覚で、実際人間はかなりの割合視覚に依存している。真っ暗な世界でなんてとてもじゃないけどやっていけないよと思ってたんだけど、最近は意外と何とかなるかもしれないという感覚になってきた。心構えとして盲目になる準備ができたというか、準備が間に合ったような感覚がある。もちろんいざなったら苦しみ抜くんだろうけど、それでもどうにか立て直してやっていける気がする。目の持病とかは別にない。ジジくせえなあと思うんだけど、老いのメリットってこういう所もあるんじゃないかとも思う。
・犬の懸命な突進でしか癒やせない心はある。誰がどんな言葉をかけてもダメなとき、そんなときに犬の懸命な突進が救いになることがある。犬ってバカだけど、だからと言って貶める必要はない。いろいろなものをスペックで語ろうとするのはあまりにも貧相すぎる。犬のバカさを心から尊いと感じられるほうがいいよ。
花火を予感しながら
僕は人一倍、学習ということそのものにロマンを感じる人間だと思う。主観世界の変容の具合にああ…!となるのは体験としてかけがえのないもので、これを求めるためにこそ学習というものに取り組むべきだと考えている。
学習によってもたらされる主観世界の変容は限りない輝きを放つ。これは花火だと思う。これがいつか必ず打ち上がるよなと思いながらやっていく。
あまり客観的な成功に意識が奪われすぎないほうがいい。あってももちろん良いし僕もあるけど、あり過ぎると良くない。それを続けていればいつか必ず飽きるし澱む。
イメージとしては、生涯を武道に捧げる人の在り方というのが近いかもしれない。主観の花火を大事にするのが武道。客観的な成功への意識が肥大してそれが見えなくなってしまったらスポーツ(スポーツマンすまん!実際はそうじゃないけどという上で、対比のやつ)。
主観の中で花火を上げる。これは限りなく素朴でありながらこれ以上なく激しい。近視眼をやめて、この予感を大事にするのがいい。