2024年6月

『修身教授録』 森信三

本書『修身教授録』は、
森師が大阪天王寺師範学校(現・大阪教育大学)で
教鞭を執っていた時期、昭和12年から13年にかけて行った
「修身」の講義録です。

修身教授録 (Chi chi-select) | 森 信三 |本 | 通販 | Amazon

 時代背景としては明治からの「日本は強くならなければ!」という危機感の中にあり、この時の偉大な教育者の講義を学生が書きとったものを一冊にまとめた、というのが本書。危機感の中にあったと言っても、森信三の講義内容は全編に渡り、現状の(特に教育者たちの)だらしなさ、自覚のなさに警鐘を鳴らすものになっており、明治維新から敗戦に至るまでのうち、こういう空気感の時点で行われた講義のよう。
 この本はかなり学びになる内容が多かった。とともに、森信三が大胆な内容をハッキリ主張する人であることや、現代と異なる時代背景などから、それは違うなあと思える部分もよく見え、そのまま受け取るべき内容と受け取るべきでない内容とがわりあい弁別しやすいように思った。
 以下、6ページほど抜粋。

 まず真っ先に気付くのが、現代的な、「押し付けないこと/個人主義/都会的洗練のスタンス」のような、もはやマナーとして身についてないとダメでしょという価値観と真逆を行った内容だなということ。別にどちらが正しいみたいなことではなく、時代という外形によって森信三の考え方と現代的な考え方の成立のしやすさが異なるだけだよなと思う。教育というのがそもそも社会的に欲されている、または正しいとされている人物を作り上げるための押し付けにすぎないという本質はあれども、程度問題として、森信三の言っていることはグイグイと迫ってきて凄いことになっている。

すなわち、それまではただぼんやりと過ごしてきた生徒が、はっきりと心の眼を見ひらいて、足どり確かに、自分の道を歩みだすという現象が起こって来なくてはならないのです。

 カルト、自己啓発、スピ のジジイか!?と現代では確実に警戒されることを言っている。

 しかしながら、このように相手の魂をその根本から揺り動かして目を醒まさすためには、どうしてもまず教師その人に、それだけの信念の力がなければならぬでしょう。すなわち生徒たちがその眠りから覚めて、自ら起って自分の道を歩み出すためには、まず教師自身が、全力を挙げて自分の道を歩まねばならぬでしょう。

 確実に意識高い系と揶揄される。

 かくして今日教育の無力性は、これを他の方面から申せば結局「志」という根本の眼目が欠けているということでしょう。なるほどいろいろな学科を型どおりに習いはするし、また型どおりに試験も受けてはいます。しかし肝腎の主人公たる魂そのものは眠っていて、何ら起ち上がろうとはしないのです。
 というのも志とは、これまでぼんやりと眠っていた一人の人間が、急に眼を見ひらいて起ち上がり、自己の道をあるき出すということだからです。今日わが国の教育上最も大きな欠陥は、結局生徒たちに、このような「志」が与えられていない点にあると言えるでしょう。
 何年、否十何年も学校に通いながら、生徒たちの魂は、ついにその眠りから醒めないままで、学校を卒業するのが、大部分という有様です。

 言い回しにまだエグいものがあるが、「学科を型どおりに習い」「魂そのものは眠っていて、何ら起ち上がろうとはしない」あたりの表現によって恐らく、学生の側はこの辺でグッと自分ごとに聞こえるようになったのかなと思う。

 ですから、現在の学校教育は、まるで麻酔薬で眠りに陥っている人間に、相手かまわず、やたらに食物を食わせようとしているようなものです。人間は眠りから醒めれば、起つなと言っても起ち上がり、歩くなといっても歩き出さずにはいないものです。食物にしても、食うなと言っても貪り食わずにはいられなくなるのです。

 この段はかなり表現が巧み。スピーチの上手い人というのは、人の心を突き動かす例えに長けている。講義のはじめの方では「なんだかすごいことを言っているなあ」と思わせるようなちょっと行き過ぎた表現をし、少しずつ自分ごとに近い表現や秀逸な例えへ変形させて同じ話をする。自分がこの講義を受けていたら、うおおお!となっていただろうと思う。

 そもそも人間というものは、自分の欠点に気付き出した時、ある意味では、すでにその欠点を越えようとしつつあるといってもよいでしょう。ですから諸君らは、今生徒としての現在において、やがて来るべき日の自分の姿のみじめさが見えるくらいでなくては、とうてい真の教師にはなれないでしょう。
 すなわち「自分もいつまでもこんなことをしていたんでは、大した教師にはなれないだろう。一端の教育者となるには、何とかして現在のこの生温るさを克服しなければならぬ」と、日夜思い詰めるところがなくてはならぬのです。この思いつめる力そのものが、実は刻々に、自分に対して内面的な力を与え、それがやがてまた将来の飛躍への原動力となるのです。

 「自分の欠点に気付き出した時、ある意味では、すでにその欠点を越えようとしつつあるといってもよいでしょう」と切り出すことで、それは決して不可能ではないんだよというニュアンスになっていく。

 かくして真に尽きせぬ努力というものは、結局私欲を越えて公に連なるところから初めて生まれると言えましょう。それはいわば普通の井戸と、掘り抜き井戸との違いのようなもので、普通の井戸では幾ら水が出るといっても、そこには一定の限度があります。ところが掘り抜き井戸となりますと、最後の岩盤が打ち抜かれた以上、昼夜を舎かず滾々として湧く水には限りがありません。そのうえ普通の井戸のように、一々吸い上げる手間さえいらないのです。同様に人間も真に公というものが分かり出しますと、限りない努力をしながら、しかも疲れを覚えなくなるのです。

 井戸の例え。さっきの麻酔で寝てる人に飯を食わすよりもさらに面白い表現だと個人的に感じる。「掘り抜き井戸は吸い上げる手間さえなく、滾々と湧き続ける」というのが、普通の井戸との対比で輝かしく際立つ!こういう人間は居るしこうなるべきだしなれる、と話している。

 同時にそれは諸君らにとっては、まさに生涯の道でなくてはならぬと思います。すなわち諸君らは、自分の今後進むべき方向を国家の運命に照らして見る時、そこには自分独自の角度から、自己をささぐべき途が見出されるわけであります。かくしてそこには、自分の生命に徹することが、やがて民族の生命と切り結ぶとも言えましょう。

 …と、国家に尽くしなさいという話として着地する。我々からするとうええとなるけれど、時代背景的にこのように「自分の生命に徹すること」と「国家の繁栄」とが結ばれやすく(結ばれるイメージが持ちやすく)、日本は強くならないと他国に侵略されるぞ!という危機感もあってこの考え方が成立しやすかった。だから現代的な価値観から見て、こういうものを洗脳的なニュアンスと見なして冷笑するのは違うと思う。

 森信三が「こうなりなさい」と力説しているのは、国家の繁栄という大目的を持ちながら、自分の領分の中で生命に徹しなさいということ。

 すなわち国民教育者としての真の自覚は、何よりもまずわが国現下の国情について、深刻に憂えるところから来るのです。人間も、単に個人的な名利を求める動機から出る熱心さは、たいてい限度のあるものです。

 「単に個人的な名利を求める動機から出る熱心さは、たいてい限度のあるもの」というのは全くその通りだと思う。何にも真剣になれない、情熱が湧かない、ダラダラとしてしまうという現代人の抱えがちな心の色合いもこの辺に関係しているように思う。昔の人は「お国のため」という大いなるものがあった。今はない。今の人たちがわかりやすく追えるのは、エコノミックアニマル的な欲望なのであって、個人的なものを越えた動機としても「家族のため」ぐらいが限界かなと思う。このあたりの規模を越えて「〇〇のため」という動機で熱心である人は、冷ややかな視線を浴びることになる。今は時代の価値観としてこのようである。この状況の違いというのは、「生命に徹する」的な生き方へ転換する難易度を大きく変えることは間違いないと思う。
 そもそもが「生命に徹する」的な生き方をすること自体に対して、冷笑というのは必ず発生する。人間は群れの生き物だから、こういう冷笑というのは身に堪える。これを乗り越えてグイと突き進んで初めて「生命に徹する」ができるようになる。また群れの生き物だから、「お国のため」のような大いなるものが動機であれば馬力が出やすい。この本能の呪縛というのが強すぎるからこそ、現代的な個人主義と、国境を薄めるようなグローバリズムという環境の中で、それでも幸福に「生命に徹する」ためにはどうすればいいのか?というのは難しい問題だし重要だよなと思ってる。
 僕はどうなのかと言うと、やはり大いなるもののために頑張るというのは受け付けない。お国のためとか地球のためとか言われても、どうしても「そういうのはちょっと…」となってしまう。自分ではなかなか「生命に徹する」の方へ転換できている手応えはあるけれど、「掘り抜き井戸は滾々と湧き続ける」みたいな状態にはなれなくて、ちょこちょこのんびりしながらまた湧いてくるのを待つ、のようなことを続けているように思う(待つというかその時間も面白く本番ではある)。現代人が個人的な動機で「生命に徹する」をやる場合はこうなるものなのかもしれない。
 「生命に徹する」に飢えているからこそ、カルトや自己啓発セミナーといったものはそこにつけ込んで商売を仕掛けてくる。「生命に徹する」ができないとしても、大いなるものに接続しやすかった昔と比べて「生命に徹する」に飢えるような時代に生きてるんだよな、という自覚を持つだけでも、カルトや自己啓発セミナーなどに対する心構えはある程度できるかもしれない。

 本の内容に対して、「スピーチ上手いねえ~!」的なコメントを添えてきたのは、これはやはり僕も現代的なものを内面化しているということだと思う。こんなコメントを添えていたら、森信三に対してめちゃくちゃ斜に構えてるように見えたと思うけど、本書は「言ってることをそのまま受け取っても正しい」ような内容も山ほどあったし、当時の講義の空気感が伝わってくるような描写が章の最初と最後に付いていたりして、本当に良い本だった。また「ここは現代と違うんだよなあ」という見方をして面白い部分もたくさんある。公正世界信念が強すぎるのはどうにも好かなかった。

 ちなみに本書の思想は、「孔子」と「老子・荘子」で言えば断然孔子的な思想。鍛錬して向上しましょう、身を修めて立派になりましょうというもののため。この本を読むとしたら、カウンター的に老荘の思想にも触れたほうがいいと思う。
●孔子的
・修身教授録(本書)
・生きがいについて(神谷美恵子:精神科医)
●老荘的
・わたしの生きがい論(梅棹忠夫:民族学、文化人類学者)
・岡潔―日本のこころ(岡潔:数学者)

エネルギーの通過を見送る

 「人間はエネルギーの器である」という見方がある。これは伝説の整体師の本に書いてあったことを丸パクリしているんだけども、なかなか面白い。人間の「仕入れて、出す」いろいろなものをひとまとめにエネルギーとして捉える。飯を食う、知識を得る、ストレスを感じる、褒められて承認欲求が満たされる…といったものを全て「エネルギーを仕入れた」と見る。それぞれに性質は異なるけれどもこれをいったん無視して汎化する。エネルギーを放出するというのも同様。
 このような見方をしたとき、現代はエネルギーが蓄積しすぎてしまい、それによって弊害が生じやすい環境となっている。一昔前には、今日食べるものにも困るような時代があって、こういう時には食料でも物でも何でも、とにかく溜め込むことが正義だった。これに対し現代は色々な面で豊かになり、欠乏の時代と比べてどんどん仕入れることができる、むしろ向こうのほうから勝手に飛んでくるようにすらなっている。「飯を食う、知識を得る、ストレスを感じる、褒められて承認欲求が満たされる」それぞれが昔と比べてみるとどうなのか考えるとわかりやすい。そのため気を付けないと、どんどんエネルギーが蓄積していって、身心に不調が生じたりと困ったことになる。昔が溜め込むことが正義ならば、現代は逆に溜め込みすぎないことへ力点を置かなければならない。伝説の整体師はこう言っていた。
 このような悩ましい事態について、「贅沢病」と呼ぶことがよくあるけど、このニュアンスというのは「甘えだよね」とか「そんな大したことではない」といったものが大きい。が、僕が強く思うのは贅沢病も本当に恐ろしいぞということ。贅沢病を正しく恐れなければならない。これは一昔前にはなかったような現代特有の難しさなのであって、今の人たちは言わば前例のない難しさの中に生きている。贅沢病を、正しく、恐れなければならない。
 仙人というのはエネルギーの器の概念で言えばやはり溜め込まないことに注意を払っている存在である。いわばエネルギーの通過を見送るような境地。仙人に近付こうと言うつもりはないし僕もそんなことはしないけど、エネルギーの通過を見送る者の澄み切った心地良さというのはイメージとして良い。
 不調を感じたら、(それぞれの性質を捨象しひとまとめにした)エネルギーが溜まりすぎてるのかなと考える。ではエネルギーを吐き出すには何をしたらいいかと考える。ストレスが溜まったから気晴らしをする、という場合にも心をモニターしてみると、この気晴らしは意外とエネルギーが溜まるタイプなんだなと気付けたりする。
 またそもそも自分はエネルギーが溜まりやすい体質や生活をしているだろうかと考えるのも良い。たとえば常に体が緊張しているような人はエネルギーが溜まりやすい。冗談でなく性欲の強い人も溜まりやすい。ここで「では精神的去勢をするのがいいのか」というとそうではなくて、自分を知りながらエネルギーの溜め込みすぎに気を付けていこうという話。

塩爺のキチガイ論

 2005年にバンキシャというニュース番組で、騒音おばさんのニュース映像に対し、塩爺がコメントをした。その際に「キチガイ」という言葉を使ったことで騒動となったことがある。
 「政治家が放送禁止用語言ったぞ!!」みたいな面白事件として消化されているんだけど、ここで塩爺のしたコメントの全文を見てみよう。

こりゃねえ、やっぱり狂ってますよこの人は。顔見てごらんなさい。目はつり上がってるしね、顔がぼーっと浮いてるでしょ。これ、キチガイの顔ですわ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%9B%B8%E5%A0%B1%E9%81%93_%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%A3!

 まあ不適切でとんでもないことを言っているんだけれど、ここには政治家として長年生き抜いてきたジジイの含蓄が込められているように感じる。「顔がぼーっと浮いてるでしょ」が特にすごい。確かに言われてみればキチガイの顔というのは、ぼーっと浮いてるように見える。顔がその人本人に定着しておらず遊離してしまっているということなのだろうか。
 繰り返し言うけどこの発言はとんでもないものである。がしかし、政界を長年経験した者による、ある種の正しい人間観とも言えるような内容だと思う。塩爺の善悪は措くとして、精度の高い人間観がないと政界では上手くやっていけないのではないか。
 こういうのってルッキズムでもあるし大きな声では言いづらいけれど、だからと言ってこういうものを排除してしまっても危険があると思ってて、正直言って僕もなんとなく蓄積しているものはある。格ゲーのウメハラが言っていたことなんだけど、「ヤバイ奴は口元に出る」という内容、これは僕も同意する。一番わかりやすく出るのは口元だと思う。あまり何でもかんでも法則性を見出そうとすると、人相術みたいなハチャメチャてんこ盛りになってしまうんだけど、勘の鋭い人が今までに蓄積したこういったものを聞いてみたい。

小粒いろいろ

・感情を加工せずそのまま言う美徳というのがある。ムカついたときに「ムカつく!」と素直に言うなど。こういうものは美徳
・家の中から窓越しに、外にいる人と目が合ったときの感覚面白い。車の中とか学校の窓からとかは違う。自分のテリトリーと思ってる内側から、外の人と目が合うのが変。
・「鬱勃起」気に食わない。語感としても気持ち悪いし、「鬱ゲー」とか「勃起不可避」とかの作品の受け取り方を先回りで指定されるものは嫌な感じがあるので、「鬱勃起」はカス。受け取り方というか人間の感情を指定するのが野暮なのであって、どういう作品なのか伝えたいなら、見た人の感情を指定する感じの表現すんなと思う。ジャンルとしてそう標榜をするのは仕方ないかもしれないけど、作品提供側がタイトルや説明文に盛り込まないでくれ。
・オタクコンテンツに躊躇いのある人のために言い訳を用意してあげる、というのってあると思う。硬派な部分があるとか、テーマとして何らかの趣味を選んでいるものとか。これを踏まえた上で、そのような言い訳を用意せず萌え萌え直球でやるという、一見軟派だけど硬派みたいなものもある。
・僕の心の中には老婆のモチーフがある。お婆ちゃんっ子だったからかもしれない。老婆にはいろいろな美しい姿があると思っていて、例えばダルダルのシャツを着てタバコを吸っているババアなどは格好いいと思う。また、ゴールデンレトリバーの老犬というのは世界の全てを愛している表情をするけれど、老婆の中にはこの境地に達する者も結構な割合いて、そういう人には神性が宿る。個人的には美しいのはジジイよりババアだなあ。
・シンプルが至高であるという思想について。外延が豪華になっていくと、中核のツール性が強まるみたいなものとしても正しいなと思う。
・猫を拘束から抜け出させるゲーム作ったら面白いかなと思い付いた。作らないけど。「猫は液体」というミームがあるけど、ミームの面白さをうまく再現したような作品ってウケやすいと思う。猫ってけっこうガッシリ抱きしめられてても抜け出せるよなというのを観察してて思いついた。猫の体の各部分を協調的に動かして、ヌルリと抜け出させるみたいな。成功したら「猫は液体!」って人の声が出るみたいな。誰か作ってみてほしい。

公正世界仮説

公正世界仮説(こうせいせかいかせつ、just-world hypothesis)または公正世界誤謬(こうせいせかいごびゅう、just-world fallacy)とは、人間の行いに対して公正な結果が返ってくるものである、と考える認知バイアス、もしくは思い込みである。また、この世界は公正世界である、という信念を公正世界信念(belief in a just world)という。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A3%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BB%AE%E8%AA%AC

 思い込み、認知バイアスというだけあって、要は「世界は公正に回ってはいない」ということなんだけど、この概念ってちょっと面白いなと思う。
 実際世界は公正に回ってないけどそれはそれとして、それぞれの人の中にはその人独自の「こうあるべき世界」というのがあって、つまりはその人の信じる「公正世界」というものがある。こういう領域になると、一般的に共有できる「努力をすれば報われる」「悪人はいつか痛い目を見る」のようなものとは違い、あくまでその人独自の公正世界ということになる。例えば宗教の話はするべきでないとか、その人が強い思い入れのあるものをけなしてはいけないとかいうものは、その人独自の「公正世界」に踏み入ってはいけないという捉え方ができる。こういう言い方をすると、なかなか危険なことをしているという実感が強まるかなと思う。
 また「実際には世界はこうなってないよな」と半ば諦めているようなことでも、その公正世界観にかなった出来事を見たときに、人は強く感動すると思う。例えば実力のある人がキチンと報われたみたいなものは、やっぱりとても気持ちがいい。
 ネット大喜利の面白い人たちが何か活動を頑張っているのを見ると、公正世界の(部分的な)実現の瞬間を見せてくれ!と勝手に期待している。

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