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自己紹介 写真への向き合い方

Sanzen-Ichiです。写真をやっています。
どういうわけか今まで一度も自己紹介をしていなかったので、いまさらという感じはするけれど、自己紹介をする。この自己紹介では僕の写真への向き合い方についての紹介に終始すると思う。というのも、僕がいつもnoteを更新するときのタイトルは「日付+ストリートスナップ」だけであり、写真だけ載せることもあれば文章を伴うこともある。文章が載せられている場合、記事内の写真はその文章とは全く関係が無く、投げっぱなしスタイルでちょっと無礼かなといつも感じていた。そして僕はタイトルにスナップと銘打っているけれど、風景を撮っているつもりなのでスナップではない。なぜスナップではないのかは後述する。ちょっと長いですがよろしくお願いします。

さて、僕が写真との向き合い方について考えていることを箇条書きにして、それぞれ説明していく。

■感傷的な写真に対する反抗
感傷的な写真とは、いわゆる「エモい写真」のことである。エモい写真を厳密には定義できないけれど、僕の観点では「温かみのある色合い・柔らかい光・過去への誘い・表面的で軽薄・消費的・共感性・パターン性・物語性 etc…」挙げればきりがないくらい感傷というのは多くの要素を含む。
感傷は過去に向かうエネルギーしか持たない。過去に向かうエネルギーの根源はイデオロギーである。過去に刷り込まれた美徳や道徳や物語にどっぷり浸かり、主体的な感動が封じられている。そして内容が伴わないからこそ瞬間的に消費されるし、共感を呼ぶ。「アニメみたいな景色」の写真がまさにそれだ。「エモい写真」は批判や批評されることを拒絶し、自己愛に閉じこめさせる。他者に開かれていくのが芸術であり、集団的ひきこもりは芸術ではない。

■アンチ道徳
たとえば、「スナップで人の顔が写るように撮るな」というのは普遍道徳の賜物である。そういうことを言う人々は自分で考えることもせずに反射的に言っているだけで、その人独自の「なぜ」が論理的に無いから一様に同じことしか言わない。それは「マナー違反だ」とか「嫌がることをするな」である。道徳を信じているからこそ、監視カメラは正義の味方だから批判しない。
本来は普遍道徳と個人の倫理にはせめぎ合いがあり、矛盾とのすり合わせで人間は社会生活を成り立たせている。しかしながら、普遍道徳に浸かっていればいつでも強い立場にいられるので、「◯◯するな」ということを簡単に言えてしまい、他者を抑圧する万能感に酔いしれてしまう。僕は普遍道徳に可能な限り逆らい、自分の倫理に則って写真を撮る。それには当然大量出血に等しい痛みを伴うが、とっくに了承済みである。

■人間性や感情を消し去る
写真で大事なのは距離だ。僕は東京の風景を撮っているから距離に気を使っている。遠すぎてもダメだし近すぎてもダメ。まあ、実際のところそれは場合によるけれど。基本的には近景よりも中景から遠景が多い。なぜなら人や物を突き放して撮らないと、人間性や感情が読み取られる余地を残してしまう。風景およびスナップを撮っているときは、あらゆる被写体と関係性が生じていない。関係性が築かれていない被写体との距離は近ければ近いほど写真の暴力性は増し、ドキュメンタリーのようになってしまう。つまり、伝統的なスナップの手法ではリアリズム的な極めて人間味のある写真になる。
僕はあくまで風景だから街は空っぽであってほしい。空っぽの風景写真は解釈を消失させ、「写真は写真である」という領域に辿り着く。

■アンチクライマックス
先述の「感傷的な写真に対する反抗」と被る部分があるけれど、写真から物語性(ストーリーテリング)を抹消したい。写真には真実も感情も写らない。写真からそれらが見えた場合、それは鑑賞者の解釈や撮影者の誘導に過ぎない。写真は無言で佇んでいるだけである。
つまり写真にはいくらでも意味や解釈を読み取らせる力があり、物語を彷彿とさせる手法は極めてピーキーだ。それは先述のイデオロギーと結びつきやすくなる。特に物語性は「私写真」と呼ばれるジャンルに採用されることが多く、私写真はイデオロギーやナショナリズムの提示に向かいやすい。
だから僕は意図的に「無」の風景を撮っている。物語も解釈も突き抜けた領域に向かう写真には普遍性が生まれると信じている。「無」を撮る行為そのものが政治的である、という指摘は当然来ると予想される。いかなる表現も「政治性」から逃れることはできないだろう。しかし、「無」に近づいていく浮遊性はあらゆる問題を通り抜け、批評性と高い倫理を備えた写真へと向かうはずである。ロバート・フランクがそうであったように。

■日本人として撮る
僕は20年以上東京で生活している日本人である。日本人として刷り込まれた数多の道徳や様式がベッタリと染みついている。だから僕が日本人という性質を手放すことは死ぬまで成し得ない。国籍を変えたとしてもその性質を脱ぎ去ることは叶わないだろう。だから、僕は日本、とりわけ東京に固執することに決め、日本人として東京の写真を撮ろうとも決めた。
単純に光と影や構図を追究するだけでは欧米の様式を流用しているだけであり、欧米の写真家の方が遥かに先進的で新奇性のある写真が撮れる。現実として、ストリートスナップでさえ、アメリカの写真家は日本の写真家よりもずっと上手い。色彩感覚も構図もフレーミングも……もちろん光と影の捉え方も抜群に優れている。そして批評性も伴っている。
とはいえ、彼らの問題は世界どこへ行っても自分たちのルールで撮っていることに尽きる。だから、彼らの撮る日本の写真は「イメージとしての日本」あるいはニューヨークやロンドンと変わらないシティスケープという印象で、パッとしない複写的な写真が多い。
だからこそ、僕は日本人として東京の有り様を包み隠さず撮らなければならないと思う。光と影、構図、色彩などは欧米風の写真として成立させるためのパーツとして利用するに留めておく。それらが抜け落ちていたとしても写真は写真である。荒木経惟の写真や、シン・ノグチさんの写真が優れているのは、日本人としての視点が批評性へと導かれているからだと思う(当たり前だが、彼らの写真そのものが素晴らしいのは言うまでもない)。外国人では、レオ・ルビンファインの『東洋の地図』も鋭い批評性を持つ日本をテーマにした写真集だ。日本人として日本および東京を批評することは、僕の写真では重要な要素になっている。


とりあえずこんな感じです。もっと言いたいことはあるにはありますが、それは聞かれたらその都度できるだけ丁寧に説明します。この記事はプロフィールに固定しておきますので、いつでもご参照してください。おそらくこの記事以降に自分の写真への向き合い方を説明するつもりはありませんが、今後スタイルが変化していくことはありますので、よろしくお願いします。


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